やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『日本の国際法学を築いた人々』一又正雄著読書メモ(1)

2020年に急いで読んだ『日本の国際法学を築いた人々』は再読したいと思っていた。国際法が日本にどのように受け入れられて行ったのか?は現代日本国家形成を理解するのに重要であり、また国際法学がなんであるかを理解するにも重要だからである。

読書メモを綴っていきたい。

 

まずは著者の一又正雄についての【研究ノート】がある。

大中真、 周圓  「一又正雄の文庫を訪ねて」桜美林論考. 人文研究 巻 10, p. 43-51, 発行日 2019-03-20

1974 年 10 月 26 日に 67 歳で病のため死去した一又はその前年に『日本の国際法学を築いた人々』を出版している。戦中は「大東亜国際法」策定にも関与している。

戦後は、東京裁判研究会『共同研究 パール判決書 太平洋戦争の考 え方』(東京裁判刊行会、1966 年) 刊行につながる東京裁判の研究をしていた。

全部で6節で構成されているので、一日1節を目標に読み進めたい。

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1 前史

明治維新前後に日本が西洋国際法をどのように受容したか、西周、津田真道、箕作麟祥、福地源一郎の4名を紹介

西周は1863年から2年半欧州に津田真道・榎本武揚らと留学。学んだ国際法が日本で活用された様子はなく、徳川慶喜にフランス語を短期教授。「哲学」という言葉は西の翻訳。しかし、西洋国際法を理解するということは西洋の歴史、哲学などを理解することであり、日本の国際法受容に大きく貢献したのではなかろうか?

津田真道は国際法の名よりも「民法」という言葉を作り、民法で有名に。ウィキには日本初の西洋法学の紹介となった『泰西国法論』を1866年に訳出とある。

箕作麟祥はフランスの民法を翻訳。国憲を「憲法」と書き換え、「国際法」という名称を初めて用いた。西洋の道徳「泰西勧善訓蒙」(Bonne, Louis Charles著)を訳し、日本に広めた。

福地源一郎についても7行で収められている。Diplomatを「外国交際」と訳した。ウィキには1867年10月の大政奉還の際、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの意見書提出していることが書かれていた。また福澤諭吉と並んで「天下の双福」と称された、ともある。非常に人間味ある人物で「国際法学」のイメージから遠い。

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明治初期の政府要人の国際法観

主権国家、独立国家、条約改正もあり、かなりの明治政府要人が「万国公法」を読んでいた。大隈、副島、榎本、大山らの紹介があるが、紙面を割いているのが副島種臣の1902年国際法学会での講演からの引用だ。これも非常に人間味がある外交交渉で、局外中立を宣言した日本の商人が参戦国の船を購入したために、その船を奪われた。そこで副島がフランス公使に掛け合って事無きを得た。またロシアとの国境交渉で二国間の関係が良くない時に副島の長男と姪をロシアに留学させ懐柔を図った話。副島の樺太、琉球交渉も詳細を知りたい。

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お雇外国人の役割

明治4年のお雇い外人387名、内政府雇入れが221名、藩雇入れが166名

国際法に関係のある6名が紹介されている。

Albert Charles Du Bousquet フランス軍事教官

E. Peshine Smith  1814年生まれの米国人。征韓論を巡って副島が辞職するとともに帰国

Gustave Emil Boissonade フランス人 1874年台湾出兵の北京談判で大久保に随行し国際法上の知恵で日本側有利に導く。彼はパワーポリティクスを日本政府指導者に教えた。(これがよかったのか悪かったのか?)

Hermann Roesler ドイツ人 国家学教授 Peshine Smithの後任

Francis Taylor Piggott イギリス人 伊藤博文とは相性が良かった。英国帰国後国際法で活躍する。英領モーリシャス、香港の要職に。

Alessandro Paternostro イタリア人 憲法、行政法、国際法、条約史専門。日本の不平等条約改正はこのようなお雇い外国人を起用して行われたのだ。今の地位協定も米国法律家に語らせれば良いのでは?

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