やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

カッセーゼによるレーリンクの思い出と評価

Cassese, Antonio 2010. “B. V. A. Röling - A Personal Recollection and Appraisal,” Journal of International Criminal Justice 8

 

アントニオ・カッセーゼが亡くなる前年に出されたペーパーを読んだ。カッセーゼは、東京裁判の判事であったオランダレーリンクをメンターとしていたのだ。単なる賛美ではない。かなり深い議論で半日を割いてしまった。

 

博論執筆に向けてカッセーゼの自決議論を再読していたら、カッセーゼと言えば東京裁判、とコメントがあってそうだな、と思いつつ横道に逸れている。結構横道でなく王道かもしれない。

 

12ページのカッセーゼのペーパーはレーリンクの紹介が愛情に満ちていて、しかしへつらいのような要素が一切ない心温まる内容だ。国際法への視点も興味深い。二人は親子ほどの年の差だがまるで一卵双生児のようだ。徹底的に戦後の国際法の在り方では相違した見解があるのを垣間見れる。

 

国際法学者がどうあるべきか?カッセーゼは法律に縛られる研究方法に反対だったようだ。地理学者のような机の上の精密さだけでなく探検家のような現地主義、しかもaha理論(認識論のアブダクション、発想法、直感)を重要視し、レーリンクも同じであった。私も両者の足元にも及ばないが、同じ志向なので嬉しい。

 

1991年、レーリンクが亡くなった6年後に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷を設置したカッセーゼは戦争を裁く必要がると思っていた。しかしそれは勝者ではなく第三者が。レーリンクは否定的だったようだ。そこら辺の議論が "The Tokyo Trial and Beyond: Reflections of a Peacemonger" に書いてあるのだろう。

 

このペーパーで心に残った箇所。

レーリンクはイリアン、まさに今暴動が起こっているパプアの法的地位を、インドネシアに渡すか、国連に任せるか、と提案し、当時のオランダの政府から更迭され冷遇を受けることになったのだ。(それにしても、レーリンクのいう通り、国連に任せた結果インドネシア領となり、今の惨状を招いたことをレーリンクはどう思うだろう?)

レーリンクは植民に対し強い反対意見を持っていた様子だ。この認識は戦争法との関係の箇所で書かれている。東京裁判をめぐる日本と連合国のことも勿論背景にあるであろう。カッセーゼは勝者と敗者のどちらからも距離を置いた公正な第三者機関、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の設置に成功した。

 

 ‘highly developed nations’ as opposed to ‘poor, underdeveloped countries’,

 ‘old countries’ and ‘newly independent states’,

 ‘formerly colonising states’and ‘former colonies’,

 ‘countries with an old military tradition and a technically highly developed army’ and ‘countries, recently become independent, with no army of any significance’,

 ‘probably-occupying countries’ and ‘probably-occupied nations’

 

現実はこの二項対立の後者の国内紛争が続いたのではないか?西洋に植民される前の非西洋諸国が必ずしも平和だったわけでも、人権が、平等が守られていたわけでもない。