やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

改めて考える『太平洋共同体』の意義 ―戦後の呪縛を乗り越えてー

改めて考える『太平洋共同体』の意義 ―戦後の呪縛を乗り越えてー

 

 戦後の日本の太平洋地域への関心を、渡辺昭夫先生のお話をもとに年代でまとめた。

 

1954年 第五福竜丸被爆をきっかけとした原爆反対運動(日米関係に影響)

1962年 サモア独立

1967年 日米が信託統治に関して協議(沖縄返還交渉の前準備)

1971年 南太平洋委員会設置

1979年 大平構想

1980年代 日本の外務省が動き出す。

     日豪関係の報告書に対になる形で「大洋州外交」の報告書が作成。

1980年 PECC(太平洋経済協力会議)が日本と豪の呼びかけで発足。

1980年代 豪、NZの援助疲れ。

1985年 ソ連がキリバスと漁業協定締結。

1986年 米国が「カツオマグロ巻き網漁業に関する多国間協定」締結

1987年 中曽根総理太平洋訪問 倉成ドクトリン発表

1988年 倉成正元外務大臣を議長に迎え、「太平洋島嶼国会議」を笹川平和財団が開催

1989年 APEC発足、笹川太平洋島嶼国基金設置

1997年 日本政府主催島サミット開始

 

 

 戦後60年、一時は日本の領土として南洋庁を設置し、今でも日本の文化や経済と深い関係にあるミクロネシアは、政治のレベルでは日豪、日米との関係でしか捉えることができなかった、とも言えよう。

 かつては太平洋諸島を巡って、欧米諸国と敵対する位置にあった日本が、これからの新しい時代に向けて、欧米諸国との協力の下、ミクロネシア地域を中心に太平洋島嶼国との「共同体」を促進することは、戦後の呪縛を乗り越える大きな一歩にもなるのではないか。

 太平洋の広大な海洋の安全は日本の利益にも直結している。さらに太平洋島嶼国も欧米諸国も日本の参加を歓迎している。

 

 我々の活動は南洋庁時代の支配的な立場では、当然ない。

 スペインの統治以来500年を経て、やっと主権を得たミクロネシアの人々が行おうとしている試みを側面から支援する形で、謙虚ではありながら、固い意志の下に進めることが必要かと考える。