太平洋島サミットと日本の原発政策(1)
太平洋島サミットと日本の原発政策(1)
日本政府主催の太平洋島サミットが開始したのは1997年である。
なぜこの時期に始まったのか?
さまざまな背景があるが、大きな要因は放射性物資の海上輸送に対する太平洋島嶼国からの非難に応えるべく、電気事業連合会の大きな後押しを得て開始されたと言ってよいであろう。
よってサミットでは必ず太平洋島嶼国首脳を招いた電気事業連合会主催の会食会と日本の原発施設の視察がプログラムに入っている。
同サミットのカウンターパートは太平洋諸島フォーラム(以下PIF)という太平洋の政府間機関である。オーストラリア、ニュージーランドを含む16のメンバー国で構成される。60年代から島嶼国が次々と独立を果たしても、旧宗主国の声に押され、自主的な活動が難しかった。そこでフィジーの初代首相カミセセマラ閣下のイニシアチブで1971年に設立至った経緯がある。
PIFは年1回、メンバー国持ち回りで総会を開催している。日本の名前がこの総会に登場するのは1981年。不名誉なことに太平洋で核実験を続けるフランスと並んで名指しで非難されている。1981年に核廃棄物の海洋投棄を日本政府が発表したのだ。
1981年から1991年のPIF総会コミュニケにある日本関連事項を書き出してみた。分量が多いので3つのブログに分けて掲載してある。
太平洋島サミットと日本の原発政策(1)参考資料1(1981-1983)
太平洋島サミットと日本の原発政策(1)参考資料2(1984-1985)
太平洋島サミットと日本の原発政策(1)参考資料 3 (1986-1991)
この非難を受け1985年に中曽根首相が大平洋への投棄の意向がないことを発表した。さらに同年日本の首相として初めて太平洋を訪問。1987年には倉成外相が太平洋諸島政策「倉成ドクトリン」を発表。これを受けて笹川平和財団は大平正芳元首相の念願でもあった太平洋島嶼国会議を、倉成氏を議長に迎え開催したのである。
その成果が笹川太平洋島嶼国基金(30億円)だ。
中曽根首相の訪問翌年には日本の対応が評価され、日本はPIFの正式対話国となり、1987年には倉成外務大臣がPIF事務局(フィジー)を訪問し2百万ドル(通貨不明)の基金拠出を表明。89年当たりから漁業交渉で若干もめるものの、1991年には日本の安保理事会への立候補支持も取り付けるほどPIFと日本の関係は良好になる。
しかし、1992年から日本が開始したプルトニウム、高レベル放射性 廃棄物、およびプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料といった放射性物質の海上輸送にPIF諸国は直ちに反応する。そして2001年あたりまでPIFコミュニケに日本の名前が再び非難の対象として登場することになる。これは次回まとめます。