やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

鉄血宰相ビスマルクに愛された太平洋(7)カロリン諸島とマリアナ諸島 その1

(このブログは高岡熊雄博士著『ドイツ内南洋統治史論』を参考にまとめています。)

 北太平洋にあるカロリン諸島とマリアナ諸島。 まずはその沿革から。

 

<カロリン諸島>

パラオからミクロネシア連邦のコスラエに東西にのびる島々がカロリン諸島。 1521年にマゼランがこの地域を航海して以来、1525年ポルトガル人によって現在のカロリン群島が 「発見」され、その後主にスペイン人によって次々と島々が「発見」された。 1686年にスペインのFrancisco Lazeanoによって、大きな島(多分ヤップ)が発見され、時のスペインの国王カルロス二世、もしくはカルロス一世の妃Carolinaに敬意を払ってカロリン島と命名。後にこの広い中西部太平洋に散在する群島全体がこの名で呼ばれるようになった。

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カルロス二世

 法王の名において、地球をポルトガルとスペインが経線で2分した事は以前書いた。この条約を楯にスペインはカロリン諸島を自国領土としたが、イエズス会の布教が原住民の抵抗によって成功せず、約300年カロリン諸島がスペインに実際に支配された歴史はない。その間、ロシアや米国、ドイツ等々が自由に布教、調査、商業活動を展開した。

 

<マリアナ諸島>

次にマリアナ諸島である。1521年3月ヨーロッパから西航したマゼランは現在のグアムとロタ島を発見する。スペインはその後ペルーからフィリピンへの航海途中これらの島々に寄港した。1565年にはこれらの群島を占領した事を公言。 事実上の占領がはじまったのは約100年後の1668年。イエズス会の宣教師が原住民の教化を目的に始活動を開始。この教化活動にフィリップ四世の妃Mariana de Austriaが補助金を下賜した事を記念し、マリアナ諸島と名付けられた。

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フィリップ四世の妃Mariana de Austria

スペインはマリアナ諸島の原住民をグアムに強制的に移住させ、その際多くの原住民が命を失ったという。この移住によって、ロタ意外はほとんど無人島となった。 スペインはカロリン諸島と同様にこれらの島々を開発する事はなかった。 高岡博士はその理由を下記の通り列記している。

一、 島々が小さく経済的価値がなかった。

一、 スペイン人は金銀を獲得する事が目的で、島々はその資源がなかった。

一、 スペインから甚だしく遠距離にあった。

一、 スペインは既に新大陸において豊富な資源を獲得していたので、これら遠く資源に乏しい島々を顧みる余裕も必要もなかった。

一、 南洋方面の根拠地はフィリピンで十分であった事。

一、 これらの島々の人口は今よりも多く、性格も凶暴であった。

一、 18世紀末から19世紀にかけて広くヨーロッパの政治、経済界を風靡した自由主義放任主義がスペインに及び、植民地事業の遂行に反対する傾向。

一、 スペインが植民地拡大をよしんば図ろうと思っても国力が衰えていた事。

 

次回はビスマルクがいかにドイツ植民事業を発展させるために弱国となったスペインに対し周到穏健な策を取り、カロリン諸島を手に入れたかまとめたい。