当方が、太平洋島嶼国の仕事を25年継続できたのは、笹川陽平会長が高く評価してくれたから、である。
その笹川会長が、島嶼国基金運営委員長を降りる、という話が99年頃にあって、パニック状態になった。私の支援者は笹川会長ただ一人だったからだ。基金事業を理解、支援してきていただいたのは笹川会長だけだったのだ。
パニックから救われたのが、運営委員候補リストを作れ、という指示であった。
渡辺昭夫東大名誉教授、千野境子産經新聞記者、松岡正剛氏の名前をあげさせていただいた。
その内、松岡正剛氏は外されて、前者2名に新たなに運営委員になっていただく結果となったのである。
財団は世界を相手に業務を展開する組織で、なかなか組織内でも島嶼国の事に理解、関心をもらうのは難しかった。そこで、笹川会長に代わる強力な運営委員が必要だと思ったのである。
島嶼国基金の最初の10年目が、笹川運営委員長時代の試行錯誤の立ち上げの時期であれば、次の10年は渡辺昭夫運営委員長が主導するより戦略的、政策的、即ち洗練された時期、と捉えている。
私が渡辺昭夫教授に出会ったのは、先生が書かれた太平洋関連の著作である。
修士号は財団に入る前に持っていたが教育学だったので、国際政治を勉強したいと考えていた。当時1997年青学にいらした渡辺先生に学びたいと思い入試試験を受ける事とした。
面接試験で、面接官から Why Aoyama? と質問。
「渡辺昭夫先生がいるからです。」と当方。
「じゃあ、落せないな。」と面接官は笑いながら答えたのであった。
後で知ったのだがその面接官が渡辺昭夫先生だったのだ。
その渡辺昭夫先生の講演を昨日ひさしぶりに拝聴させていただいた。
私が、ミクロネシア海洋安全保障事業に意義を見いだしたのは、渡辺先生が書かれた戦後初の日本の安全保障政策であった「樋口レポート」のリベンジになる、と目標を得たからである。
という事を講演を伺いながら改めて思い出した。
渡辺先生は言説の人である。私は現場の、実務の立場である。
樋口レポートにもある日本の多角的な安全保障への関与を、太平洋で一歩一歩進めたい。