とんでもない時に八重山に来てしまった。
北朝鮮のミサイル発射に備えて、PCA3配置のため石垣に自衛隊が入っている様子がニュースで流れているが、今目の前でその様子を見ている。
なぜ石垣に来たのか?
私は、島と島を結ぶ、というコンセプトで沖縄の八重山諸島と太平洋島嶼国の交流を長年行って来た。一つがジャーナリスト交流、もう一つが島で島の事を学ぶ「やしの実大学」。
後者は今読んでいる後藤新平の「通俗大学」に近いアイデアである。
その当時の地元実行委員会の中心人物の一人、南山社社長上江洲さんに連絡したところ、10名近い方が集まってくださり、八重山の「今」を色々お伺いできた。
<革新左派と組む>
1991年から太平洋島嶼国のメディア事業に関与。太平洋島嶼国のジャーナリストを東京や大阪に連れてきても規模が違い過ぎでなかなか記事にならない。
そこで日本の島、離島への取材を検討した。
色々島を巡った結果、八重山諸島が候補に上がり単身、訪ねた。
地元ジャーナリスト協会(本土からの派遣記者も含む)が集まり「笹川は出て行け」という話になった。
翌朝、もう二度と来るか!と石垣空港に向かうと、空港で地元記者、友寄英正氏(故人)と上地義男氏(現八重山毎日顧問)が待っていて
「本土の記者が八重山の事を決めるのはけしからん!俺たちは笹川平和財団と事業をする!」
と言われたのである。
友寄さんは社会党帆足計議員の秘書をされていた経歴もあるバリバリの革新左派の活動家。
上地さんもそうである。
私はこのお二方と10年以上、八重山諸島と太平洋島嶼国の事業を展開させていただいた。
<島と島を結ぶ>
やしの実大学も、ジャーナリスト交流事業も終了してしまったが、八重山での経験は大きかった。
島、小国、弱者に対する哲学を私は八重山の方達から、机上ではなく現場で学ばせていただいた。これが博論のテーマにもなってる。何のための開発なのか。
今、八重山諸島の安全保障を、ミクロネシアの海上安全保障と共に目の前で、また実際に担当し、世界の安全保障、軍事に対する島の視点、というのを考えている。
後藤新平だったら、新渡戸稲造だったらどうするか、とここ八重山諸島で考えている。
<八重山の新渡戸菊>
上地さんと八重山観光フェリー池間会長が、「今、八重山は新渡戸菊がいたるところに植えられているんだ。」と八重山と新渡戸の関係を語られた時は目が飛び出してしまった。
しかし、上地さんも池間さんも新渡戸の植民政策はご存じなかった。