与那国に自衛隊を入れるきっかけを作ってしまったのは私です。
と書くとまたなんか言われそうだけど、奥茂治さんだけではないことは確か。。 ちょっと書いてみたいと思う。あまりにも複雑な話。
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2016年2月7日。北朝鮮のミサイルが上空を飛ぶ八重山、石垣島に私はいた。 八重山毎日新聞の前編集長上地義男氏と八重山観光フェリー社長の池間義則氏と数年ぶりの再会。10年以上に亘って「やしの実大学」という事業を私が八重山諸島で企画運営した、その仲間・同志である。友寄英正さんという左翼活動家のジャーナリストが中心人物だったが2007年5月1日に亡くなられた。
友寄英正さんから私は島の開発を現場で学んだ。 彼は東洋大学卒業後、衆議院議員帆足計の秘書を経て、沖縄で一坪基地運動など展開した反体制の左翼活動家。しかし本土の左翼が大嫌いだと言っていた。島の人を土人扱かいする、のだそうだ。。
1996年だったか。私が石垣を初めて訪ねた時、現地新聞社との会議をもった。「笹川は出て行け!」という本土と沖縄本島の新聞社の罵倒を受けて、「二度とこんな島に来るものか!」と私は八重山を去る空港で待っていたのは当時RBCの友寄英正さんと八重山毎日新聞編集長の上地義男さんだった。お二人は八重山のことを島外の人間が決めるとはけしからん!と怒り「俺たちは貴方と仕事をする」と私を空港で待ち伏せしたのだ。
友寄さんは左翼と右翼はぐるっと回って一致するんだと私に笑いながら言った。相当左翼グループのいやらしさを見ていたのであろう。私は内閣府系の日本青年全国組織運営の経験を、すなわち本当の草の根の青年たちと作業をする経験をすでに10年近くしてきた。八重山左翼と組むことに支障を感じなかった。理論ばかりを振り回し何もしない輩より、現場に根をおろして弱者支援を実行する活動家の方が肌にあった。
前ぶりが長すぎるけど、ここから話さないと、なぜ与那国に自衛隊が入れたのか、説明できないのだ。
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その友寄英正さんが沖縄の左翼運動を牽引してきた。沖縄の復帰、80年代バブルの中での土地買い占めへの反対運動。 情報やいまがその詳細を記録してくれている。
友寄さんは金城朝夫の名前でたくさんの論文を出しているが『八重山開拓移民』は一気に読んだ。友寄さんは単なる左翼活動家ではなく、地に足のついた理論家、哲学者、ジャーナリスト・・ だから本土の左翼活動家、特に新左翼が大嫌いなのだ。
ここは私と一致した。 私が最初の博士論文に開発学の理論を選んだのも友寄さんの影響が大きいかもしれない。八重山毎日新聞の前編集長上地義男氏も友寄さんの指導を受けた人だ。この両名が八重山の土地買い占め問題、空港建設反対の旗を80年代から振ってきた。
私が八重山に来たのはその空港反対運動が行き場を失った頃だった。 反対、反対だけではだめだ。前向きなことをしたい。それが私が企画したやしの実大学だった。
問題は友寄さんも上地さんも、八重山諸島の関係者、琉大の大城前学長等等、この「やしの実大学」事業が、私一人の企画運営であることを知らなかった事だ。実はこの事業は財団の恥だとまで言われ早く止めるようにずっと言われていたのだ。しかし財団外の各方面の評価が異常に高く10年続いた。
しかし上地さんたちは財団の意向だと勘違いしていたのだ。その勘違いが自衛隊誘致につながっていく。自衛隊誘致は私の意向ではなかった。今は私も西太平洋の安全保障状況がわかるが、10年前は中国の脅威はまだ強く意識されておらず海保ならいいが海自は、と上地さんに話していた位だ。上地さんがその通りの内容を論説で書いていた。
2004年の最後のやしの実大学に日本財団の山田吉彦氏が参加したことで、運命が大きく変わっていったのだ。八重山諸島の上地さんたちは、財団が私の代わりに山田氏を担当にしたと勝手に思い込んだ。これは琉大の大城肇学長の責任も大きい。大城学長が山田氏を竹富の海洋事業に紹介したからだ。山田氏は財団ともやしの実大学事業とも一切関係がない。
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こんがらがった糸をほどくような作業だが、書くと整理できる。
八重山の左翼グループが何をどう誤解して自衛隊を受け入れたか?
つまり私は、空港問題で行き詰まっていた八重山左翼グループに前向きな道を示したのである。それが「やしの実大学」であり「ジャーナリスト交流」だった。ところが、八重山毎日新聞編集長の上地氏が自分たちのイニシアチブでやりたいと、「八重山市民大学」を新たに立ち上げた。地元イニシアチブと言いながら東京から永六輔さんを学長に呼び、田中真紀子議員を講師に呼ぶという島の自主性はどこ?という内容だった。現実は、島の人はそういうビッグネームが好きで、一人1万円の会費をとって大成功したのだ。
私は寂しい気持ちと、「なんだ、結局本土の有名人頼みではないか」とがっくりした。 この八重山市民大学は事務局の不祥事があったと噂で聞く。上地さんはじめ悲嘆に暮れている様子はよく伝わってきた。そこに、財団の新たな担当者と誤解された山田吉彦氏が出入りするようになったのだ。上地さんの空港物語を読んだが、友寄さんの文章とは全く違う。そこには開発理論がなく、反対のための反対運動しか見えない。上地批判になるが、上地さんとはおべっかを言い合う仲ではないと信じている。
山田さんから「早川さんのネットワークを利用させてもらっていますよ」と言われた時はゾッとしたが、その時は友寄さんも病院にいた頃で、私にはどうしようもできなかった。ミクロネシア海洋安全保障事業という安倍政権のインド太平洋構想につながる事業を、これもたった一人で立ち上げていた頃だ。山田さんはそうとう深く八重山に入りこんでいた。
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友寄英正さんの事を書こうと思って、難波大輔の件を確認したかった。 なんとなくこの二人が重なってしまう。
友寄さんは糖尿病で亡くなられたのだと思う。付き合いで飲みに行く事が多かったのだと思う。私も石垣のバーによく連れて行ってもらった。八重山の女性は美人ばかりで、しっかり者で、強い。島はどこも男がだめなのだ。
友寄英正さんの家は沖縄で格式の高い家系であること、東京の東洋大学を出られた事などを本人から伺った。 東京に出て大学を出て帆足計の秘書になったのだ。その経緯や沖縄に戻られた理由はあまり人に話さなかったようだ。帆足計のこともあまり話さなかった。なぜだろう?何かあったのではないか?
友寄さんが八重山の、沖縄の反体制運動、左翼運動の首謀者であった、と言っていいのではないだろうか。私は彼に「選ばれた」である。 石垣空港に着くと友寄さんがいつも空港に迎えにきていた。今思うと私への教育、一種の洗脳だったのかもしれない。 本当は先にホテルにチェックインしたかったのだが、石垣島の公共事業批判ツアーを2−3時間強要された。
友寄さんの四駆小型車で石垣の各地を巡った。 農家や小企業を巡って弱者の存在、島興しの起源(この言葉は友寄さんが作った)、八重山の移民史等々、活動家としての「思想」と「理論」教育を私は受けたのだと思う。 私も太平洋の島々の対応に悩んでいた頃だったので八重山の社会構造を学ぶ事でそれが一気に解決した。
私が左翼活動家にならなかったのはそれ以前に私は大橋玲子さんという小沢一郎議員の政策秘書をしていた人から国内、国外の政府や国会議員の動かし方、国際組織、日本全国組織を運営等々を学んでいたからだ。真っ白ではなかったのだ。批判的に友寄思想を学んだ。
友寄さんの武勇伝はたくさんあるようだが、有名なのが国会爆竹事件とうちなーぐち裁判。今ウェブ検索すると結構情報は出ている。この事件を謀ったのが友寄せさん。知能犯だ。沖縄青年同盟を友寄さんは率いていた。でも本土の新左翼に利用された、のではないだろうか。ここは友寄さんははっきり言わなかったが、左翼は、殊に新左翼は大嫌いだ、という。
それは容易に想像できる。途上国や、離島の現地に赴いて「専門家」を名乗る人がああだこうだと指示するのは最悪なのだ。私はこういう馬鹿を山ほど見てきた。島の事は島の人が知っている。友寄さんは「最後は百姓の勝利だと言って七人の侍のように去っていかなきゃいけない」と。あの映画を観るたびに友寄さんを思い出す。(黒沢シリーズは手元にある)
与那国に自衛隊が入る素地を私が作った話、です。 まだまだあるが、ここを書かないと理解できないので、関心がある方はしばらくおつきあいください。 私もこうやって書くのは初めての試みですが、何にもしていない奥茂次みたいのがやった、というのだけは避けたい。
友寄英正さんのペンネームは金城朝夫。
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与那国に自衛隊を誘致するきっかけを作った話。
私は八重山の左翼グループをある意味で懐柔したのだろう。 2007年その中心人物、友寄英正氏が亡くなり、私はご自宅にお参りに伺った。しかしこれは心の痛みと共に覚えているのだが、友寄氏と八重山毎日新聞編集長だった上地氏は八重山市民大学の件で亀裂があったようで、当時友寄さんはその強引な性格もあってあらゆる方面から批判をうけていた。
私もその強引さに引きずられたので理解もできるがあの性格と教養と情熱がなければ島の自立(若しくは自律)は有り得ない、と今思う。 友寄さんと私がいなくなった八重山に山田吉彦氏が入りこんで自衛隊誘致を推進したのだそうである。とこれは上地氏はじめ八重山諸島の何人かから聞かされた。
当時、私はミクロネシア海保案件が2008年に始まって八重山の事は気になりつつも遠のいていた。 与那国が自衛隊誘致で2つに割れた件も詳細を琉大の大城肇学長から伺っていた。与那国の反対派のリーダー田里氏からも詳細をうかがっていた。 そこには本土の左翼が絡んでいたのだ。友寄さんが生きていたら一眼で見抜いて「このバカタレが!」と追い出していたであろう。
2016年上地・池間さんと石垣でお会いした時「山田さんが自衛隊を推すから了承した。あれは笹川の意向だろう」というようなことを言われてぎょっとした。 「山田さんは笹川とも、私の事業のやしの実大学とは一切関関係ありませんよ」というと上地さんも驚いていた。 それほどやしの実大学の事業は八重山の左翼グループから歓迎されていたのだ。なぜか?
それは島おこしの原点である、島の人が主役の形を私が取っていたからだ。 私の支援哲学でもあったが、それは正に友寄流島おこし事業だったのである。
「反対のための反対ではなく、理論的な反対運動をしなければだめです」と私は上地氏に言った。上地さんはその後反対の動きをとりはじめたようだが、それは遠くで見ていると反対のための反対にしか見えなかった。石垣の居酒屋での自衛隊の私的会話を記事にしたのは上地氏だ。すなわち空港問題と同じ構図、反対のための反対でしかない。
自衛隊が来ていいことばかりではないはずだ。特に中国の脅威がなくなった時どうなるのか?ハワイ・グアムの冷戦終結後の悲惨な状況も伝えた。
私は2008年から西太平洋の海洋安全保障事業を担当し、中国の脅威をまさに米豪の軍事関係者から直接知る機会を得たことで、与那国に自衛隊が必要である事は今わかるが、与那国の巨大な自衛隊施設見た時はショックを受けた。
今日与那国で検索したら、自衛隊の島の人々の交流は進んでいるようだ。
しかし繰り返すが自衛隊の存在はいいことばかりではないはずだ。友寄さんだったら、なんと言うであろう?私は自衛隊に島の文化や歴史を学んで欲しいと思っている。拙著『インド太平洋開拓史』にインド太平洋を航海した軍人たちが、数学、天文学、民族学の専門家であったことを強調して書いたのその意味がある。
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今久しぶりに「与那国」でウェブ検索をした。軍民両用のグラウンドができている。