やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

伊藤隆氏の松本重治批判

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『追想 松本重治』に伊藤隆氏の松本批判がある事を、伊藤隆著『歴史と私』に自身で書いてあり始めて知った。 伊藤氏は最初悪くしか書けないからと断ったらしいが、再度要請があり書いた、と『歴史と私』に書いてあった。3頁の短い文章であるが、当時の背景もわからず当方にはチンプンカンプンであった。

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伊藤氏が日経新聞にも松本重治の本の書評を悪く書いている、とあったので探した。 また、ハワイ大学のシャロン・ミニチェロ氏が、松本、蝋山の軍部との接触の文章を紹介しているとも書いてあったのでこれも探した。

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 f:id:yashinominews:20200426174840j:plain日本経済新聞社 1986年7月20日

f:id:yashinominews:20200426175307j:plain日本経済新聞社 1987年3月8日

要は、松本重治、蝋山政道は戦前、近衛体制を、翼賛体制を形成し、軍部ともつるんで、日本を戦争に追い込んだが、戦後その部分は全くシラを切り通している、という話だと思う。

松本重治は欧州留学から戻って1929年に新渡戸稲造と太平洋問題調査会の京都会議で出会う。 しかし、伊藤氏が書く様に松本の華やかな人脈ばかりで自身が何をしたか、というのがよくわからない。汪兆銘工作及その周辺の全貌を語ってこそ、自身を平和主義者と言う資格を持てるのではないだろうか?

松本の笹川良一批判は同時代を生き、軍部の内情を知る笹川が松本、蝋山がしてきた事も全部知っていたからではないだろうか?翼賛体制を笹川が批判した事もあるだろう。これは全くの想像である。 松本は、日米のかけ橋として新渡戸稲造に遠く及ばないのは? そう考えるのは近衛文麿も、松本重治、鶴見祐介そして柳田国男も皆新渡戸の背中を見て日米、日中、日本国内問題を解決しようと考えていたからではないか、と想像するからだ。

以前紹介した鶴見俊輔氏の文章が思い起こされる。再度引用する。

「昭和時代の軍国主義の支配にたいして、かつて新渡戸門下であった官僚・政治家・実業家・教育者・学者たちのとった道は、偽装転向意識に支えられながら、なしくずしに軍国主義にたいしてゆずっていくという道をとった。偽装転向意識に支えられているということがかえってかれらの中に転向の自覚を生まず、この故に敗戦後におなじく転向意識なしになしくずしに民主主義に再転向することが可能となった。これら個人の転向・再転向は、日本の支配階級内部での強力な相互扶助、パースナルな親切のだしあいによって支えられてきた。」

(「日本の折衷主義 ー新渡戸稲造論ー」鶴見俊輔著、『近代日本思想史講座Ⅲ』筑摩1960) 

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松本重治関係文書目録 2012年7月作成 国立国会図書館憲政資料室 http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_matsumotoshigeharu.pdf