やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「ラウンドテーブル」運動とコモンウェルス 松本佐保

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チャタムハウス創設者 ライオネル・カーティス1872-1955

  

「ラウンドテーブル」運動とコモンウェルス — インド要因と人種問題を中心に –

松本佐保 (page 191-220)

『コモンウェルスとは何か』山本正・細川道久編著、ミネルヴァ書房、2014年

 

 

前回、さっと斜め読みしたが、気になったので再読したら、かなりの情報量だし、濃い内容なので、再度メモとして書いておきたい。

 

チャタムハウス設立につながる「ラウンドテーブル」の存在。そしてチャタムハウスと太平洋問題調査会の関係。衰退する大英帝国の生き残り作戦。

チャタムハウスを動かす2人の民間人—ライオネル・カーティスとロージアン卿。特にカーティスの果たした役割 — それは今に続く英連邦の枠組みや、自由連合という提携国家の誕生の基になったであろう(ここは当方の想像)「委任統治」の案。即ち現在の小国の存在の起源(の一つ)がここにあるのかもしてない。

さらにカーティスが中国滞在で書いた『中国問題の核心』が、リットン調査団を生み出す結果になった、とあるところはいつか詳細を追ってみたい。(210−211頁)(”The Capital China Question” PDF見つけたのでリンクしておきます。結構な量なので、いつ読めるか)

 

論文は6節からなり、第1節は「ラウンドテーブル」があまり研究されて来なかった理由が説明されている。(p. 193-195)これが結構面白い。

まずはセシル・ローズという「強欲ダイア」と象徴される人物が支援者であったことからあまり取り上げられなかった。そして帝国主義に否定的な米国が英国の帝国主義から学んだという事は認めたくないという理由。さらにそしてラウンドテーブル研究がアングロサクソンの国際社会を牛耳って入ると言う陰謀説に解釈される可能性がある事。そしてチャタムハウスが流動的て実態が掴みずらい存在であった事が上げられている。

 

2節の“「ラウンドテーブル」運動の起源と発展”では、まずは白人植民地のコモンウェルス −「諸国民の共同体」の形成が書かれている。そこにはインドという“英国”内部からの圧力と、ドイツ・日本という外部からの圧力が形成要因として存在していた。特に日本に掲げるアジア主義への対抗があった。そしてアイルランド問題については第二の米国を作らないように、良好な関係を築き上げて行く事が書かれている。

次にベルサイユ会議で出された「委任統治」というアイデアは1916年のカーティスが書いた『コモンウェルスの問題』にあったようで、1918年12月のラウンドテーブルにカーティスは国際聯盟の委任統治について発表しているという。(202-203頁)。即ちウィルソンが同意した「委任統治」はスマッツが提案したがそれはサー・ロバート・セシルがカーティスの案に賛同した事が発端であった!これは矢内原に論文にも書いてなかったと思う。後で確認したい。

 

3節では“「チャタムハウス」始動とインド自治問題“が扱われている。

カーティスは日英同盟を支持していたがその理由は、日本の植民地や帝国問題に関心があり日英は協力すべきと考えていたという。多分新渡戸から植民政策を学んでいたであろう。興味深いのはカーティスも他の英国人も豪州の白豪主義に懸念を示していたと言う事だ。それは人種問題に同情的といより、人種差別をする事で、英国の有色人の植民地が英連邦から離れていってしまうからである。英領インドはすでに英国にとって防衛力として重要であり、人種問題とはインド問題として、英国は対応しなければならなかった。すなわち、ベルサイユ会議で英国が日本の人種差別撤廃提案を反対したのは、豪に多くの犠牲を払わせたため、同国のヒューズ首相の圧力にロイド・ジョージが屈したと言う事だ。これは初めて知った。(p. 206−207)

 

そして第4節はこの本をすぐ返却しなかったテーマ “「チャタムハウス」と「太平洋問題調査会」”

カーティスがチャタムハウスを設立したのは連盟が目指す戦争回避などを同じ目的をかかげ宣伝することなどであった。そして「カーティスが最も懸念したのは、はやり非白人世界をいかにこうした白人中心的な国際秩序に取り込んで行くかであった」(p. 207-208)そしてカーティスは人種問題と中国での「5.30事件」をきっかけに極東全体に拡大し、これが当時「太平洋岸のアジア人に関する加米共同研究を目的とする人種調査プロジェクト」を実施していた「太平洋問題調査会」につながり、チャタムハウスは「太平洋問題調査会」の正式メンバーとなる.1925年に設立された「太平洋問題調査会」は前年1924年に施行された排日移民法対策であり、元々は日米カナダ、豪州等の外交関係を改善する事が目的であった。

 

第5節極東問題への関与、ではカーティスが中国滞在で『中国問題の核心』を執筆。これがリットン調査団を生み出す結果になったとある。そして英米は、日本が中国に独占的で保護貿易的を進めている事に反発。新渡戸が参加し、そして帰国途中で亡くなった1933年のバンフでの太平洋問題調査会では英米の利益は完全に一致していたようだ。(p. 210-211)

 

最後が第6節「移民・人種問題とアジア主義」

豪州の白豪主義、米加の排日移民法と「白人優位主義ネットワーク」は確立する一方、英国は第一次世界大戦で、インド兵がアンザックよりも3倍動員されていた例を見るようにインド人なしでは英国の軍事防衛は有り得ない状況であった。そして「ラウンドテーブル」の発端であった南アフリカでインドナショナリズムに目覚めたのはあのガンディーであったのだ。

ベルサイユ会議で日本が提案した人種差別撤廃が却下され、続いて日英同盟も破棄、そして排日移民法施行は人種を意識したアジア主義へと発展する。このような状況の中で英国はインドが離れて行かないようその自治を認め人種的にも対等であるという姿勢を示す。この事が第二次世界大戦後にインド独立が比較的容易であり、有色人種をいれたコモンウェルスの完成になったという。

 

Curtis, Lionel . ”The Capital China Question” 1932

capitalChinaquestionCurtis.pdf