やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平の植民政策(6)「厳島夜話」後半

厳島夜話の舞台となった広島の岩惣

伊藤に新旧大陸対峙論を披露した後、後藤は感想を書いている。

この新旧大陸対峙論は、後藤が児玉との最後の会談に述べた内容であった。児玉は翌朝死去する。よって後藤は児玉から4時間に渡って説得されたが躊躇していた満鉄総裁を受けざる得ない状況があった。その際後藤の心には「自ら満鉄経営の任にあたるに及んで、微力ながら欧亜文明融合の実現に努力を惜しまないと誓った理由である。」という思いがあった。(p. 506)

伊藤は「大アジア主義」にも「新旧大陸対峙論」にも冷たかったのだそうだ。その理由は伊藤によると「伊藤はいまだかつて後藤を無視したことはないが、後藤はしばしば伊藤を無視したではないか。」とのこと。 具体的には伊藤は後藤に満鉄だけでなく朝鮮鉄道経営も任せたかったのに、満鉄総裁就任にあたって一事も相談がなかった事を伊藤は怒っていたというのだ。

伊藤博文が1841年生まれ。後藤は1857年生まれ。16歳の差がある。16歳年下の後藤に朝鮮鉄道を任せたいと思い、3日間時間を取って意見を聞こうとした伊藤。この時の後藤は50歳だ。

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2日目、夜の11時半まで続いた議論を終えて後藤は白雲洞ミカドホテルに戻る。後藤は、伊藤が米国の将来の脅威を予見していることは共通しているが、と述べる。そして、午前2時近く伊藤に呼び戻される。(伊藤は岩惣に宿泊。会談は明治40年9月28−30日) 伊藤は後藤に、対支方策の枢要事は二人だけが知っているべき事で口外しない。また桂や友人にも話していないか、と念を押し、沈黙を守る事を誓わさせられた。(p. 513)

伊藤は続けた。この件を進めるのは陛下のお考えを仰ぐ必要がある。陛下は桂や山形に御下門されるかもしれない。そして桂が後藤に意見を求めた時、それは後藤から伊藤に提案した事である、と言われては誤解を招く事があるかもしれない。と。後藤は断じて他言しない事を近い、伊藤の快諾を得たのである。(p. 514)

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ココツェフ伯爵 外交官ヨッフェ

厳島の会談の後、後藤は第二次桂内閣で逓信大臣として入閣。清では西太后崩御。袁世凱の地位も一変。伊藤は韓国統監の任務と解かれていたところに、後藤と再会し、後藤に腹案を訪ねる。(p. 518-519) 

そこで後藤は、ロシアの宰相ココツェフ伯爵との面談を提案する。そして同伯爵と伊藤の面談を自らアレンジ、ハルビンで会談する事になる。(p. 518-521)  その時の詳細を後藤は記している。 伊藤は明治42年10月14日日本を出発。当時桂公が後藤に「伊藤公もじっとしてくれればよいのに。」とささやいたそうである。

南満を訪ね至る所で歓迎を受けた後、26日午前9時にハルビンの到着。ココツェフ伯爵を車内に招き約半時間、通訳を通して親密に話し合った、と記している。(p. 522) そしてその直後暗殺されるのである。

伊藤は桂に厳島談話の以降の事を初めて打ち明け、伊藤の遺志を桂公と引き継ぐためシベリアを経てロシアに入る直前、明治天皇の崩御の凶電を受け取る。桂も世を去り、後藤は藤桂両公の遺志を継ぐべく、日露国交回復に向けて私人として折衝を重ねた。その一つがロシア外交官ヨッフェを大正12年、東京熱海に療養させた事であったようだ。(p. 526)

ロシア、中国、その他当時の国際政治及び桂、伊藤の確執などがわかっていれば、もっと面白いかもしれないが、私はここら辺が一切わからない。それでも小説を読んでいるようで面白い。

伊藤が暗殺された事はさすがに知っているが、その背景を知って歴史の歯車を痛感する。広島厳島も再訪してみたい。 ここで後藤新平の植民政策、終わりにしようとおもったが、「厳島夜話」の前に「対清政策」という後藤の外交政策を知る項がある。そこに日露戦争が世界に与えたリパーカッションのような事が書いてある。バヌアツが英仏共同統治になったのはドイツのウィルヘルム2世のせいだとずっと思っていたが、そうではなかった。これも日露戦争で日本が勝利し、英国が漁夫の利を得た結果であった。 よって、もう一回後藤新平の植民政策を書いておしまいにしたい。