やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平の植民政策(14)植民政策一班

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後藤の講演記録である「植民政策一班」から、「第一 緒論及び日本植民政策の史的経済的関係」に続いて 「第二 帝国満州における特殊の使命」をメモする。

私は満州の事や歴史的背景など何も知らないので暗闇の中の読書のようなレベルである。それでも後藤新平の植民=阿片政策、という研究者に会った事がショックで、わからないなりに読んでメモを書いておく事で誰かが参考にしてくれるかのしれないし、何よりも自分の理解に役立つので続けます。

日露戦争後の満州統治を後藤は児玉から懇願されるが、他の事は全て阿吽の呼吸だった児玉と満州統治だけは意見が合わず、長時間の協議が続いた。児玉は後藤に満州統治は鉄道にあると提案したのは君ではないか、と責める。そしてその直後亡くなる。後藤はこの任務を受けざるを得なくなった。

後藤の懸念とは何か?満州の事何も知らないのですが後藤は満州が租借地であるにも拘らず鉄道線路が占有であること、そして日本の大陸進出が日本の将来の禍源、恨みを貽すのではないか、と予言している点。日本は満州事変を迎える当然の道を歩んで来たのではないか。

当時軍部が主導していた満州統治を後藤は鉄道会社をトップにした機構に変え「文装的武備」という方針で開拓して行く。「文装的武備」とは軍事関係を最終目的にするものではない。とにかく「武装的文弱」ではいけないと。軍部の文弱はこのころからあったのか?

しかしこの「文装的武備」に海軍からの抵抗が大きかった。旅順鎮守府を海軍は撤去も活用もさせないと主張。しかもその目的は敵に対しての防備ではなく、同じ日本帝国の陸軍を敵としていた。この件は植民地政策に大きな障碍になった。

 

この節には山形元帥、西園寺首相、林外務大臣宛の意見書が掲載されている。が現代語に誰か訳してくれませんでしょうか?ほぼ意味がわからないのですが。。

植民経験がない官僚政治を排して満州鉄道総裁、即ち後藤がトップに立つ事。これをイギリスの東インド会社経営を引いて主張している。

外務省への批判も手厳しい。従来の外務省の植民政策は空疎不振で一朝に変わるものではない、と。即ち直訳すると外務省は手を出すな、黙っていろ、ということであろう。

 

その他後藤は満州統治の詳細を述べて行く。

一言でいえば情報収集、分析、即ちインテリジェンス機関を設置した事だ。しかも積極的に専門家を海外から求め、また日本の学者を米国に送り知恵を授ける。これを後藤は「高等植民政策」と呼ぶ。

なんと日本政府は英国と米国から北里博士を招聘する要請を断っている(国賓という理由で)

「文装的武備」の一つが東亜経済調査局であった。これは後藤がパリを訪ねたときにクレディー・リオネー(Crédit Lyonnais)の銀行内に調査局があり日本の公債はじめ何でも情報を持っている事を視察し、日本にも必要であると認識したのである。

しかし後に調査局の歴史調査部を新しい満鉄重役が廃止してしまった事を近視眼的行動と批判。当時既に日本が日本が南満州を横暴するという噂が流れ、その誤解を解くにも学者の歴史研究が必要だと説く。

後藤はインテリジェンスとプロパガンダの重要性がわかっていたのだ。

それから後藤が撫順石炭山に病院を建てた事を、日本では「後藤の病院病」と批判したがドイツでは文明的金儲の準備が秩序的にできたと複数の新聞に掲載されたように、植民に関する視点が日本と西洋では違う事も指摘している。

 

この節では下記のような、後藤の植民政策が所々に見受けられるが、この後藤の精神、哲学はどこで消えてしまったのであろう?またなぜ現在の植民研究学者は後藤と言えば阿片政策、としか言わないのであろう?

「植民の事業は健全なる国家の政治的発展であると言うことは玆に申し述べるまでもない」