やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平の植民政策(7)対清政策

藤原書店が2005年に出した「正伝・後藤新平」4巻は満鉄総裁時代を扱っている。

厳島夜話」の前に「対清政策」(p. 402-486) があって、これも読んでしまった。読んだと言っても当時の歴史的背景やあそこら辺の地域の事を何も知らないので、とても正しく理解できていると思えない。

それでも対中、対ロ、そして英国の動向について後藤の分析記述は初めて知る事ばかりで面白い!

<対清>

後藤の公生涯の最大の関心は社会問題と外交問題であった、と鶴見は始める。

外交政策に関与するようになったのは満鉄時代からだ、そこには「ロシアの復讐的意図」と「支那の覚醒」があったと鶴見は記す。そして鶴見は明治40年4月20日に行われた東三省(満州黒龍江吉林、泰天)の政治改革が徐世昌、唐紹儀らによって行われ、天津の袁世凱を訪ねて密会の諜報が紹介している。(当時は日本は諜報活動をしていた!)

内容は現代語に訳されていないので、良くわかりませんでしたが、満鉄経営にとって看過できない一大事、と鶴見は書いている。(p. 403-407)

後藤は日本政府に満州経営に関し「植民高等政策」「北京特派大使派遣」等を提言する。

そして後藤は1907年明治40年5月29日に清国皇帝と西太后に謁見する。この詳細も書かれていて面白いのだが省略します。(p. 422-430)

袁世凱との「箸同盟」談義も興味深いが省略。(p. 430-433)

後藤が、多分時の首相、外相、閣僚にあてに書いた対清政策の中に「帝国がその本文の主張に拠って、露人の痕跡を南満州から削って以来、冷血で猜疑心旺盛な清国人は多く集まって頭を聳やかし、機会を捉えてその独善不遜の私欲を逞しくしようと望んで、利権回収、拝外自強の説が朝野をゆるがしている。」(p. 435)という書いている箇所だけ、書き留めておく。

<対ロ>

色々興味深い記述があるが全て飛ばして、日露戦争後にロシアのの脅威を書いている箇所に移りたい。(p.419から)

後藤は、日露戦争の結果、多くの日本人が露国の損害のみを語り、露国が得た利益に気づいていない事を指摘。その利益とは

1)露国シベリアは戦争の惨禍を蒙らず巨額の収入を得た。

2)シベリアの運輸力は増強した。

3)シベリア人民は戦争で外国品を利用し、工業産業が刺激された。

4)露国の流通経済がシベリアに道を開いた。

(p. 420)

後藤は「日露戦争の勝負は、たまたま列国国際の均衡に影響し、...戦の後に戦来る。日本は戦って露国に勝ったことがすなわち露国以上の強敵を作った原因であることを自覚する必要がる。そのために問う。この強敵は今どこにあるだろうか。・・・」(p. 455) とも書いている。この認識が当時どれだけの日本人に共有されていたのであろう?

<対英>

ここは唸ってしまった!始めて知った英国の狡賢さ!以下(p. 443-444)から。

日英同盟締結時は日本がロシアと戦うことも、まして勝つ事も察知していたわけではない。ところが日本が勝ったとたんに英国は攻守同盟を改訂し(知らなかった!)日本の声勢を利用して東洋の主となり、チベット、アフガン、ペルシア案件の複雑な事件を解決。さらにフランスは長年の嫌猜を解いて英国と手を結ばざるを得ない立ち場に。ロシアも排英を止めて連合を。

後藤は「英国の侮った笑いが、そのまま列国の軽重を制するのを見るのである。・・・日英同盟の利用は、もっぱら英国が行うことができるもので、日本はほとんどその分に与っていないようなものである。英国人ここにありと言うべきである。」(p. 444)と書いている。

この英国に対する認識は7年後にやってきた第一次世界大戦参戦に積極的だった秋山真之も共有していはたのではないだろうか?日英同盟のために日本は第一次世界大戦に参戦したのである。

<対独>

ドイツが意図的に日本を悪者にし、追いつめていた様子は平間洋一先生の本にあったが、後藤も詳しく書いている。以下P. 459-460から。

後藤は支那満韓シベリアに利権を求めるドイツこそ日本が留意すべきと指摘。

日露戦争の原因は、日本が負けると思ったドイツが、ロシアに「教唆」したこと。さらに一歩進めて、日露戦争の本因は三国干渉でこれもドイツが仕掛人

日露戦争の結果、日英露仏連合ができ、米国がこれに好感を持ち、ドイツは憤悶の地に立たされているので、今後どんな陰謀を日本に仕掛けるか。この不測の禍因を閉ざす事を後藤は主張する。

後藤は外交官に批判的なようだ。

駐仏大使がドイツが東洋問題に関係を有さないと公言したことを「不穏な雰囲気を国際に遺すもの」(p. 460)と批判する。そしてドイツの東洋政策は「しきりに親清の野心を兆し、清国政界にあってもまた、次第に親独一派の勢力が認められるにいたった。」と解説。

<再び対清>

この外務官僚批判。今に続く日中関係の原因かもしれない。

日清関係について後藤が外相への覚書として書いた文章も掲載されている。(p. 469- 486) 日露戦争後、清に猜疑心を生じさせたのは日本の外交の不味さにあったのだ。ここは長くなるが、そのまま書き写したい。

「同時に、私は平生、心ひそかに疑惑に堪えないものがある。日露戦局がはじめて終わり、小村大使が北京に出かけ、天皇のお使いとして折衝したところ、満州内治の予後に関して、特に急に差し迫ってくるものがあった。ひとたび満州統治について具体的に記して清国の責任を条約条文に明らかにしようと要求するや、当時、非常に適切な清廷の言質が出されて、結局その条文は成立しなかったのだが、清国が満州統治策に関して過大な用心深さを加えるようになったのは、実にこの折衝に起因していたのである。その後西園寺首相やその他朝野の名士が満州視察に往来、それが頻繁となり、内には文人論客の気ままな談論となり、清国にだんだんと恐れを助長させ、皇族大臣の巡視となり、駐満官憲は傲慢となり、新官制が創定され、清朝廷を恐れ動かし、わが満州植民の強敵としてしまっただけでなく、それ以来、一事一事また一事、日本はほとんど常に清国に先着をゆずって、彼のうしろから目を見張っている実情である。これがはたして計を得たものなのか。」

この文章、専門家の意見を聞いてみたい。

7回に分けて後藤新平の植民政策を追って見た。満鉄時代を書いた4巻を再読すると共に、やはり台湾時代も読む必要があるであろう。それにしても先行研究があれば、私のようなこの時代、地域に無知な者でも多少は理解できると思うのだが。