日本の南洋統治を矢内原忠雄が研究し、その矢内原の植民学の先生が新渡戸である事を知ってこのカテゴリを設けて情報を収集して来た。
数年前に新渡戸に関心があると、日本財団参与の鳥井啓一さんに言ったら、後藤新平をすすめられた。
矢内原より新渡戸の方が断然面白いのだ。
で、
新渡戸より後藤新平の方がさらに面白い。
新渡戸を台湾植民に呼んだ後藤の植民論があるはずである。たどり着いたのが「日本膨張論」
そこで後藤が書いていたのが「横井小楠」でその存在を初めて知った。
坂本龍馬も勝海舟も影響を受けたのだそうである。
現在通っている同志社大学への通学路上に横井小楠が1869年に暗殺された場所があって記念碑が建っているのだ。
寺町通りを歩くたびに横井小楠の本を読もうと思いつつ、年末に図書館で借りたのが『横井小楠の新政治社会像』(三上一夫著、1996年、思文閣出版)。
10章ある中の第9章「小楠儒学の国際社会観」だけ読んだ。
国是三論は1860年に、国是7条は1862年に執筆している。
まず驚いた、というか私が知らなかっただけなのだろうが、ペリーが来る前からロシアや英国が北海道や九州の島々に頻繁に来て日本侵略、領土拡大を狙っていたのだ。
だからペリー来航は予想されていたのかもしれない。
小楠は、西洋諸国が領土拡大で戦争ばかり繰り返すのは、学問に人情が欠けているからだと。
日本人が誠の心で接するば日本を見習い「仁風」で関係諸国の関係が良くるなるであろう、と。
それには強い海軍が必要だ、と。
なんとなく安倍政権の積極的平和主義に似てないだろうか?露英米3国と仲良くなれ、と。
橋本左内が米露と友好協定を締結し、英国と戦争する事も辞さない態度だったのに比べ小楠は「大義を四海に布かんのみ」の理念で英国とも仲良くする事を主張。
当時は英国によるアヘン戦争で、次は日本、という危機感が大きかったのだ。
後藤は小楠の門下であった義父の安場保和から、小楠の開国論を聞いて隅々まで知っていた可能性は高い。
後藤が米国に植民とは何かを教えてやらねばならん、と言っていた事を思い出す。
後藤、新渡戸の植民政策はどちらかというと今の開発政策に近いのだ。
熊本出身の小楠は福井藩で活躍する。が「開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」と誤解を受けて寺町通りで暗殺されてしまう。
小楠の長男横井時雄は同志社の三代目の学長に。
小楠のお墓は南禅寺の天授庵に。
京都には小楠の面影が至る所にあるようだ。