後藤新平の植民政策について無体系に読み散らかしている。
藤原書店が鶴見祐輔著の『正伝 後藤新平』8巻を発行。4巻が満鉄時代を扱っており、(2005年、藤原書店)後藤の植民政策を知る文章がいくつかありそうなので手に取った。特にここには「大アジア主義」を伊藤博文に説いた「厳島夜話」が入っている。
その前に「文装的武備」の節に「後楽園の演説」と「文装的武備」が掲載されているので簡単にメモしておきたい、
明治40年、1907年に後藤が行ったこの演説は、後藤の生涯の内で最も重要な演説の一つ、と鶴見は書く。(p. 253) その時は満鉄総裁として、二十数カ国の代表と日本の閣僚他400名を相手に、新渡戸稲造の通訳で行った、という。(p. 253)
後藤は、キプリングの詩を引用し、「従来東西両文明の絶対的隔絶を説いてきた幾多の旧思想を排除するのに似ている。」と満州の開発を説明する。続いて「東西国境、人種貴賤の差別によって互いをそねみ嫌うことはない、」とその意図を明確にし、満州が世界各国の共同利益になることを強調する。(p. 256)
1907年日露戦争で東西対立が、そして日本の脅威が顕在化された時期ではなかったか?
続いて後藤の植民政策の一つ「文装的武備」の節では後藤が大正3年に幸倶楽部で行った講演を引用し下記のように説明する。
「そこで文装的武備とは、ちょっと言ってみると文事的施設をもって他の侵略に備え、一旦緩急あれば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事です。」(p.260)
この次の節「三 軍部に拮抗」で「文装的武備」の発想が生まれた背景が書いてある。日露戦争に浮かれた軍部が満州を牛耳っていたのだ。
「それは戦後に横溢せる軍部の勢力に対抗することであった。」「ただ伯の痛感したことは、軍部の見地からのみ、大陸経営に当たることの危険であった。」(p. 264)
「文装的武備」はそれに対する政策であった。また同様の状態が台湾でもあり、これは児玉総督がうまく軍部と後藤の調整をしたという。(p. 266)
鶴見は、満州での後藤の態度を、上田恭輔と松岡洋右の2人の記述を引用し紹介している。両方とも面白いが、松岡は後藤が旅順の偕行社に行った時随行し、臨場感のある記述をしている。
「すると伯は突然、「満州に来てみると、皆が軍人病にかかっている!」と喝破せらた。この喝破の声に、一座の人たちは全くアッケにとられた。」(P. 265)
そして自分の心情を下記の通り書き残している。
「なるほど、後藤さんは脱線される。しかしその脱線は決して無意味の脱線ではない。あの空気、あの場所、ほとんど軍人ばかりのうちで、ああいうああいう喝破されるという事は、この人。実に偉い」(p. 265)
松岡は後に満鉄総裁になる。
次に後藤と軍部の拮抗がさらに鮮明あった旅順の件が書いてある。このまま伊藤博文との『厳島夜話』に移るつもりだったが、後藤の植民政策に戦勝後の浮かれた日本軍部を抑える、という背景がどうもあるようなので、もう少し読み進めたい。