やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

大橋玲子さんの事

人生を変える出会いがある。

 

私が今、国際交流、国際協力と言った仕事に関わっているのは24才の時に大橋玲子さんに出会ったからである。

その彼女が1週間前に亡くなられた。

 

虫が知らせる、という事はあるのだ。

私は育児、仕事、博論で10年近く彼女に連絡をしていなかった。

偶然、共通の知人が目の前に現れ、入院されている事を知ったのである。

先月、7月の事だ。直ぐに会いに行った。

大橋さんは一言も発しなかったが、私の話す事はすべて理解し、目で指示をしていた。

彼女の精神力、エネルギーがスゴイ勢いで伝わってきた。

一歩も引くな。そう言っていたと思う。

 

このブログを書いているおかげで多くの人が私に会いたいと連絡をくれる。

その一人が、日本財団の鳥井啓一参与だった。色々と恐ろしい話を聞かされたのだが、その中で笹川会長がなぜ私を評価しているか教えてくれた。1988年に笹川平和財団が開催した太平洋島嶼会議の成果として笹川太平洋島嶼国基金が翌年設置されたのだが、担当者が見事座礁させてしまったのだ。1991年に財団に入った私が一人でこの座礁した基金を再起動させたのである。

なぜ、大の男が何人もかかってできなかった基金の立ち上げを、26才の小娘が一人でできたのかというと、これは大橋さんから組織運営を学んでいたからだ。全国レベルの1万人の組織と、アセアン諸国を結ぶ数千人の組織運営を既に現場で経験していたのだ。

当時の財団には島嶼国の事は勿論、組織運営、即ち運営委員会と財団事務局の役割が理解されていなかったし、公益組織にも拘らず広報が何もされていなかったのである。

幸い、当時の運営委員会の委員長であった笹川会長は、この座礁した基金をどうにかしたい、という明確な意思を示していた。他の幹部は匙を投げている状態だった。

残念ながら財団内に仕事を相談する人はいなかったので、私はいつも大橋さんのアドバイスを求めていた。大橋さんは自民党の政策スタッフや大物議員の選挙参謀として活躍していた経歴があり、人間関係の作り方から、ポーカーフェイスの作り方、仕事の詰め方とか、何から何まで細かく教えてくれたのである。

 

笹川太平洋島嶼国基金を再起させただけでなく、国内国外に人脈を開拓し、数々の事業を成功させる事ができたのも、大橋さんのおかげなのだ。

大橋さんの仕事は、官僚が作った稟議を大臣のところでひっくり返したり、ゼロ査定の事業を満額に戻したり、と一歩も引かないどころの話ではない。こんな事をしたら憎まれ、敵も多く作る。

それも勲章なんだろう。

 

彼女が変えた多くの若い人生があると思う。それは日本国内だけでなく、アセアンにも広がっている。今80、90年代に共に活動したアセアンの友人達が、私の目の前に現れてきた。これからアセアン通いが、また始まるのか。。(東南アジア青年の船は秋篠宮妃殿下も参加された内閣府の青年事業。)