(このブログを書こうと思ってウェブサーチしていたら見つけたフィジーの戦士。カイコロ。どこかで見たお顔だな〜、と1日思い悩んで気がついたのが・・・)
コロナ禍で毎年6月頃、シンガポールで開催しているIISS主催のシャングリラダイアローグも中止。その代わりウェブでエスパー国防省のスピーチなど公開されている。ここにこの4月から同志社大学にいらした元内閣官房副長官補兼原信克氏のスピーチもあったので拝聴させていただき、FBでもシェアしたところ、FBFから下記の動画を紹介いただいた。
ながら聴きをさせていただいたのだが「フィジーも同じです」という箇所で「え!」と手が止まった。15分頃です。
元内閣官房副長官補兼原信克氏の太平洋認識はこのレベルだったのか!
別にディスるつもりも軽蔑するつもりもなく、フィジーの植民の歴史などを知っている自分が特殊なだけなのだが。。
今度の本にも書いたのだが、フィジーは英国の植民を、保護領となることを自ら受け入れ、長年の地域の紛争に終止符を打ったのである。
悲劇はこの英国の植民地となることを決めたザコンバウ酋長が、植民地となった事を祝うために息子共々オーストラリアのシドニーに訪問したことである。そこで麻疹をもらってきた。
帰国する船の上で発病し、フィジー上陸前に隔離処置をしなかったのだ。(ここについては麻疹ついてよく知っている英国の陰謀ではないか、との説もある)不幸な事にザコンバウ酋長の帰国後に酋長会議があって、その麻疹も持ち帰り、人口の30%、資料によっては半分近くが亡くなった。
そこでインドからサトウキビ労働者を連れてきたのだ。これも強制労働ではなくて希望者を募ってだったはず。
これが現在のフィジーの民族問題の基本である。
インド人が人口の半分を占め、サトウキビがあるフィジーの西側空港のあるナンディの方が豊かになる。首都のあるスバの東側、即ち大酋長にいる地域は収入が少ない。インド人対フィジー人の民族対立に見える社会構造は、実は西と東の先住民フィジー社会の権力闘争であった、との見解もある。
この民族闘争に終止符を打ったのが2006年に軍事クーデターをおこしたバイニマラマ首相。インド人差別をなくした。しかし軍事クーデターを許さない豪州、ニュージーランドが関係を断ち、中国が一気に入り込んだのだ。