1999年の三塚、田淵パラオ訪問は、私とナカムラ大統領の距離を一気に縮めた。
翌年が偶然にも第2回しまサミットでナカムラ大統領・森総理が共同議長をすることになったのだが、このサミットも小渕総理の依頼を受けて、私が全面的に協力したのである。
沖縄と太平洋の島々も当時私のテーマであったので、琉球大学を支援して多くの事業を行なった。確か太平洋の学長会議だったと思う。
ナカムラ大統領のスピーチだ。
Education, Education, Education!
この言葉で始まるスピーチ原稿をもらってどこかにあるはずなのだが見つからない。
とにかくナカムラ大統領は教育を重要視するリーダーだった。お父さんのは三重の船大工で子供たちは厳しく育てられた、と何度も聞いた。米国の影響もよろしくない。日本の支援が必要だ。外務省は何をしてるんだ。へっぴり腰じゃないか?日本はしっかりしろ!理恵子がんばれ。
あなたが、小国とは言え、一国の大統領にここまで言われたらどうしますか?
あれは2000年、2001年辺りだったと思う。財団で暴力を受け、さらにハラスメント受けた私は財団を訴えるべく弁護士にも相談していた。心残りは自分がゼロから作り上げた事業だった。そしてナカムラ大統領のような人脈。
2017年 笹川洋平から嫉妬を受けて仕事を突然失った。ナカムラ大統領に呼ばれてパラオに挨拶行ったのだ。「何があった?いじめられてたんだな。わかってたよ。」
そして私は宿題をもらってしまった。「よくやったね。お疲れ様」とは言ってもらえなかったのである。
「リエコ、助けて欲しい。パラオの子供たちが麻薬でだめになっていく。大麻はいいんだ、それしか収入の手段がないから。でもアイスはだめだ。あれは子供たちをだめにする。パラオがなくなってしまう。ペリリュー(ナカムラ大統領はペリリュー出身)は人口がどんどん減っている。子供たちを守ってほしい。」
私のとってのナカムラ大統領からの遺言になってしまった。
今パラオの子供を守っている。ナカムラ大統領の遺言を守って。。