やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「 シンガポ-ル占拠に至るまでのラッフルズの地域選択の歴史 : 一八一八-一九年における彼の行動を中心として」別枝 篤彦 著

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ラッフルズと現在のPadang  1819年、ここにラッフルズは基地を建てた。

信夫清三郎著「ラッフルズ伝」。昨年末に読み始めたがお正月の忙しさの中でそのままになっていた。

「これは読みたい!」と言っていただける方がいて、この数週間ほぼ毎晩5ページ位ずつ読んでいる。主に私が一人で読み上げているだけだが、難しい漢字があるのと、我慢強く付き合ってくださる4−5名の方たちに申し訳ない思いがあり事前にサッと一読。さらに先日鶴岡公二大使から、数百年に及ぶ英国の植民の歴史の良い面とグローバルブリテンの話を伺い、のめり込んでいるのだ。

信夫清三郎氏は政治学・歴史学者。英語文献からの和訳が文章として難解なのと、戦争が始まって空襲を避けながら書かれた、という背景もあってか、疑問が残る箇所もある。私の読解力、理解力がないだけだと思うが、関連の資料を探す中で、今読んでいる9章のシンガポールの建設、と同じことを扱った論文を見つけた。

 

別技 篤彦 「シンガポ-ル占拠に至るまでのラッフルズの地域選択の歴史 : 一八一八-一九年における彼の行動を中心として」Atsuhiko Bekki  史苑,22(1),13-36 (1961-09)
 
別技 篤彦氏の経歴が興味深い。
戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。 1946年帰国とある。
 
(1908-1997)

別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年(明治41年)12月7日 - 1997年(平成9年)4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。 東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒、1932年京都帝国大学文学部史学科卒、大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。 1946年帰国。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」で京都大学文学博士。 福井大学学芸学部助教授、神戸商科大学教授、1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 [著書] 『人文地理学通論』地人書館、1935 『世界地理政治大系 蘭領印度』...

 

ほとんどが信夫先生の本と重なるのだが、ラッフルズがシンガポールを選んだ歴史学者としての詳細が書かれている。ここは英国の植民が科学的であったことの証拠であるから、なおさら重要に思う。シンガポールは1150年頃、スマトラの王族の一人が見つけ王宮を作り四方から商人が集まって栄たのだが1367年攻撃を受けて滅びた。この史実を書いたマレイ語の文献が英語に訳され、ラッフルズは序文を寄せている。すなわちラッフルズはシンガポールの歴史と地政学的意義をしっかり理解していたのである。ラッフルズは一千年前にはジャワ、スマトラ、マレイ半島に号令を出した王宮の跡を見つけ、そこに新たな基地を建てたのである。Padangと呼ばれるのその場所は現在のシンガポールの中心地である。

ラッフルズが植民する以前は貧しい漁村であり、誰もその歴史を知らなかったのだ。150人程度のマレイ人と若干の華僑しかいなかった島は4ヶ月後には5千人を超える商業都市となった。

 

グローバルブリテンの歴史的根拠がここにもある。