やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『日本の国際法学を築いた人々』一又正雄著読書メモ(3)

勘違いをして2節を飛ばして3節を先に読んでしまった。

3節は専攻国際法学者の誕生 千賀鶴太郎、有賀長雄、寺尾亨、高橋作衛、中村進午の5名が紹介されている。中でも、有賀、中村に夫々十ページ以上をさき、他3名は2−3ページと少ない。

千賀鶴太郎はベルリン大学に13年在学。その理由は本論文通過の後、ローマ法、寺院法、ドイツ古法のテキスト解釈小論文三本を提出。さらにそれぞれ3時間の口頭試験が。ベルリン大学、今でもそうなのであろうか?教師も大変そうだ。

有賀長雄は日露戦争の現場で委任統治論を書いた国際学者として注目していた。日露、日清戦争において日本がいかに国際法を守ったかをフランス語で出版。一又はそれに比べ「あえて将兵にその存在すら知らしめず、国家に千歳の汚名をつけた昭和陸軍との差異をおそろしいまでに…」と書いている。「国際法を無視した戦争」というのはやはり本当だったのか。。。

有賀が袁世凱の顧問で、対支21か条に反対し、外相加藤高明から怒鳴られた話は初めて知った。そして有賀はこの日本政府への反発と北京寄りの態度で孤立していく。1921年6月61歳で亡くなる。日本が南洋諸島の委任統治を開始するのが1922年2月11日。有賀は知っていただろうか?

寺尾亨は遠山満と同じ福岡出身で、頭山がボーズを匿うとき、協力したとある。頭山宅の隣に住んでいた寺尾は追いかけてきた警察官に「インド人はもう帰った」と嘘を伝えたのだそうだ。寺尾は熱血的な行動家だった。頭山と国際法学者の組み合わせはなんとなく意外。

高橋作衛:東郷平八郎によるイギリス商船高陞号で、東郷の判断を国際法上支持したケンブリッジ大学のウェストレーク教授に師事し、イギリス法の専門家となった。

中村進午は、著者一又の師であったはずだ。近衛篤麿の影響が大かった。近衛文麿の父である。そしてアジア主義の盟主でもあった。そんな近衛の影響もあり七博士意見書の一員として政府に請願上奏文を提出。七博士は職を失う。一又が1944年の戦争の中で「大東亜国際法」を研究していたのは中村進午の影響だったのかもしれない