やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『日本の国際法学を築いた人々』一又正雄著読書メモ 寄り道「国際法学の移入と性法論」

一又正雄著『日本の国際法学を築いた人々』をメモをとりながら再読し始めた。一又氏が引用している大平善梧の「国際法学の移入と性法論」が気になってウェブ検索をしたら出てきた。しかも20ページで1日を潰す量でもなさそうだ。内容はお宝発見だった。

まず「性法論」は自然法のことで、人類理性に基づいて自然に定まる法則」

大平善梧

日米和親条約第一条が「幕府が祖宗の遺法と称するものを変通して、日本を国際団体内に進出せしめた一大飛躍的宣言」と指摘する。日本の国際法の運用は米国との条約にありと言えるのでは?

第一ヶ条
一 日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之候事。

 

中国のアヘン戦争敗北が安政条約締結につながったこと。アヘン戦争以降、中国での西洋国際法研究が盛んになりその漢訳が日本に入ってきたこと。「海国図志」もその一つであろう。漢訳書は中国に滞在していた西洋人が出している。

宣教師、丁韪良 William A. P. MartinyやHenrry Wheaton p.467

すなわち日本への国際法文献は西洋の原著が漢訳され日本に入り日本語になっていった。二重のバイアスがかかっているということだ。

William Alexander Parsons Martin

 

Henry Wheaton

「海国図志」の現著者はEmmerich de Vattel。参照:『海國圖志』「滑逹爾各國律例」・『萬國公法釋義』解題 

http://kande0.ioc.u-tokyo.ac.jp/kande/gaikoku/_ttNogdi.html

 

西洋国際法が受容される日本の背景が興味深い。

鎖国の中にあって江戸時代、漢学が最高潮となる。中国との交易も盛んで漢学思想が全国に染み渡っていた。 p. 470-471

蘭学は、吉宗の代で翻訳が可能となった。『解体新書』が有名である。この流れを汲んだ西洋学者(高野長英、渡辺崋山など)が開国主義を唱える。

徳川時代の思想界は儒教の道徳主義が支配。朱子学派、陽明学派、古学派。朱子学が徳川300年の正統的儒教となった。p. 471

この朱子学の性理論が、国際法を受け入れる素地となった。国際法は本来自然法ではないが当時は国際法と自然法を区別なく我が国に紹介された。幕末の外交当局が国際法を学び始めたが、彼ら、そして西洋学に転じた人々も思想的には漢学の頭脳であった。p. 472

国際法の誕生と自然法は離れ難い関係にある。ローマ法王の手から解放したのが自然法であり、国際法学者は主権者も私人と同じ、人性に由来する自然法に規律されるべきと主張し国際法学を樹立。p. 473

国際法はウェストファリア会議1648以降、実定法学派が勢力を増し、19世紀前半までは自然法学派と折衷派が指導的立場にあった。p. 473

日本に輸入された国際法は自然法派と折衷派が主流。

 

途中、国際法学における自然法の議論が展開され興味深いが、引用は省略する。

 

ともあれ、日本に輸入された国際法は自然法に基礎を求める学説であった。万国公法が自然法もしくは宇内の条理と同一視された。これはHenry Wheaton恵頓の「万国公法」が原因。この誤解から国内政治論の自由民権論、公議論の展開に。他方開国論の理由にも。p. 480-481

宇内の公法、万国平等の権利があると信じられ、万国公法を学ぶことによって外国交渉に勝利を得て、日本の地位を確保できるものであると信じられていた。p. 481

 しかし、国際法が宇内の公法ではないこと、国際条理のみでは国威を保てない事が判明した。そして実際論が勢力を強め、「法的争議」で自然法派「仏法派」が敗北したことで世の中は実定法主義が主流となる。明治25年、1892年以降国際法論から性法(自然法)の影は消える。p. 482

 

日本の漢学、儒学、朱子学が国際法の自然法論と相性が良かったという箇所が非常に興味深かったです。