上野公園の仏像
市ヶ谷の自宅から3つ先の駅が上野公園だ。9to5で拘束されない自由の身になったので、博物館通いでもして教養を少しでも高めよう、と企んだ。
年間パスポートが2,500円。4回行けば元が取れる。教養より銭勘定が優先する我が身が悲しい。
あっと言う間に半年が経ち、2回しか行っていないことに気づいた。細川家の至宝展の広告に誘われて行くことにした。ところが平日にもかかわらず、人の頭を見に行っているような混雑ぶり。これでは教養にならぬ、と判断し常設展に移った。
常設展には平安から鎌倉にかけた仏像が展示されている。誰もいない静寂な空間で、仏様と対峙できる幸福な時間だった。これで年間パスポート代半分は元が取れた、と意気揚々で博物館を出て広い横断歩道を渡り上野公園へ。いつもより浮浪者の方たちが多く集まっていた。
キリスト教の団体が食料の配給をする日のようだった。浮浪者と大学教授は3日やったら辞められぬ、と聞いたことがあるが、寝食住が定まらない浮浪者の生活は楽しいことばかりではないはずだ。ふと、今見て来た仏像たちが高い塀の向こうで、観賞用に鎮座させられていることに疑問を覚えた。国宝となった仏像たちも元々は博物館ではなく、苦しみ悩む人々のために造られたはずだ。
太平洋島嶼国のジャーナリストから「なぜ豊かな日本に浮浪者がいるのか?」と聞かれることがある。島には浮浪者はいない。都会特有の現象だ。弱者を皆で助ける社会がある。浮浪者を出すことは村の、島の恥なのだそうである。
(文責:早川理恵子)