原発事故で改めて認識していることは、戦後の日本の対太平洋政策が原発政策と関連していることである。
80年代は、核廃棄物の海洋投棄が問題となり、中曽根首相が太平洋諸島を訪ねた。
1997年に突然始まった「太平洋島サミット」。背景には1992年から開始したプルトニウム、高レベル放射性廃棄物、およびプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料といった放射性物質の海上輸送に対する太平洋島嶼国政府の反発を封じ込める目的がある。
日本の政策なき太平洋島嶼国支援を憂慮された笹川太平洋島嶼国基金2代目運営委員長渡辺昭夫教授が、政策を協議策定する勉強会Pacific Islands Policy Study Committeeを立ち上げた。渡辺昭夫先生は言わずと知れた大平正芳元首相の「環太平洋構想」勉強会チームで島嶼国を担当されていた方である。
この勉強会ーPacific Islands Policy Study Committeeの成果は、日本財団笹川陽平会長(笹川太平洋島島嶼国基金初代運営委員長)が2008年に発表した海洋に主眼を置いた「太平洋共同体」構想に反映している。
このように考えると、戦後日本と太平洋の関係を真剣に考え取り組んだ3人の偉人が浮かび上がる。笹川良一、大平正芳、五島昇だ。
太平洋諸島を回ると実感するのが、「笹川」の看板なしでは仕事ができない事である。
私のような馬の骨が、太平洋を訪ねても、
「笹川の者です。」といえば、
「ああ、ササカワ」と言って急に歓迎ムードになる。
それほど現地でその名前は知られ、信頼と期待がある。
メディアは本当の姿を書こうとしないが、パプアニューギニアの独立を支えたのも、日本とトンガ王国との関係を築いたのも笹川良一名誉会長である。
大平元首相の環太平洋構想は当初Pacific Ocean Communityと本人が英語で名付けた。本省主計局主査で南洋庁を担当していた大平が島に関心があったことは明白である。1988年に開催された『太平洋島嶼会議』は大平正芳元首相の念願を叶えたものである、と聞いている。そして翌年「笹川太平洋島嶼国基金」が設置された。
そして東急の五島昇氏だ。
笹川陽平会長から五島昇氏が、フィジーの離島を購入し環境保全が可能な観光開発ができるまで手つかずにしておいた話しを伺っていたが、たまたまウェッブにそのことを詳しく説明されているのを見つけた。
フィジーのカミセセ・マラ初代首相との約束だったようだ。
――欧米型の開発事業だと、優れた場所でもリゾート地にして30年も経てば俗化してだめになってしまう。もっと息の長い観光開発はできないものかと頭を痛めた。昭和43(1968)年、フィジーのラツ・マラ首相に会う機会があった。彼は「ザ・パシフィック・ウェイ」という言い方で、環境保全を最優先しそれを守れる範囲でしか開発を認めないという考えを繰り返し説明した。我々とかけ離れた価値観に衝撃を受けた。
詳細は下記参照。
その背景にあった経営トップの遺志東急不動産
東急不動産株式会社 パラオ・リゾート開発における取り組み
笹川良一、大平正芳、五島昇が太平洋に馳せた思いを振り返る事もしていきたい。