やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「移動する太平洋の島の人々」(3)

(2012年1月琉球大学国際沖縄研究所のご招待で講演させていただいた内容を同研究所の許可を得て掲載させていただきます。)

「移動する太平洋の島の人々」(3)

国際沖縄研究所:IIOS レクチャーシリーズ 2011第6回

2012年1月10日(火) 18:00~19:30 (於てんぶす那覇4Fテンブスホール)

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 次に500年前に移りたいと思います。ここからは皆さんがよくご存じの太平洋へのヨーロッパ人の拡散になります。まず1500年代に、スペイン人のマゼランが太平洋にやってきます。当時ヨーロッパはスペインとポルトガルが覇権を握っていました。この2つの国は、ヨーロッパ以外の世界を二分するというトリデシャス条約というのを結んでいました。彼らは太平洋に来て、勝手にグアム、北マリアナは我々の領土と宣言し、300年以上植民地支配することになります。

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 次にやってきたのが1600年代。オランダ人のタスマンが太平洋にやって来ました。彼は現在のニュージーランド、オーストラリアまでやって来まして、広い太平洋の存在を確認することになります。  オーストラリアは以前ニューホーランドと呼ばれていました。それからニュージーランドのジーランドというのは、まさにタスマンの出身地であるオランダのジーランド州から取ったものだそうです。

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 スペイン•ポルトガルに遅れること200年。1700年代には、フランス、そしてイギリスの大航海時代が始まります。この方はフランスのブーガンヴィルです(スライド12)。お花のブーゲンビリアは有名だと思いますが、あのお花は彼から名前を取られています。彼が南米のどこかで見つけたので、彼の名前がついたそうです。それから同じ時期にイギリスのジェームズ・クック船長が太平洋にやってきています。  

 スペインとオランダの2つの航海というのは、おもに商業目的で資源を発見し開発することにありました。それに比べ1700年以降のフランスとイギリスの航海は知識の探求が中心です。1700年代ヨーロッパでは科学が発達し船には天文学者や数学者、科学者を乗せ太平洋にやってきました。ブーガンヴィルは有名な航海日誌を書いています。彼がタヒチに約1週間滞在したときの事を書いています。当時フランスのルソーなどの有名な啓蒙思想家たちに影響を与えました。社会が形成される前は、人間は平和で豊かに暮らしていたに違いないということを考えていたんですが、ブーガンヴィルが記したタヒチというのはまさに「自然人」の生活の典型的なものでした。ブーガンヴィルの航海日誌を読んだフランスの啓蒙思想家達は、これこそが人間の自由な姿であると。私の想像ですがタヒチの人々の生き方が、美しき誤解のままフランス革命につながっていったのではないかと考えています。

 ただ皆さんは島の方でお分かりになると思うのですが、島社会が自由人で成り立つと思われますか? 実際の島の生活というのは掟ばかりで、英語のタブーというのは、実はポリネシア語、この地域からきているのです。ポリネシア語の「タプ(TAPU)」というのが英語のタブーになっています。それほど島の社会というのは掟ばかりの生活で、決してブーガンヴィルが書いたような自由人が暮らす社会ではなかった。

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 それからジェームズ・クック船長の太平洋の航海ですが、彼が太平洋に来た目的は、イギリスの王立協会からの依頼で、ある決まった時期に太平洋のタヒチのあたりで金星の日面通過を観察することでした。それが彼の太平洋にきたミッションの一つだったのです。金星の日面通過とは何かというと、太陽の前を金星が通る時期が決まっているのですが、その時に金星の大きさと太陽の大きさを比べることによって太陽系の距離が分かるんだそうです。彼の太平洋の航海によって、天文学に大きな功績を残すことになりました。

 ヨーロッパ諸国が競って手に入れようとしたグローバルな資源と知への探求を背景にヨーロッパの勢力争いの地図がそのまま太平洋に移されることになります。5万年前、3000年前の太平洋における人類の拡散と決定的に違うのは、ヨーロッパ人の拡散は科学的な知識に基づいていましたから、彼らの情報と知識はその後500年間蓄積されていくことになります。

 そして現在です。太平洋の島々はヨーロッパ人がやってきた後、植民地支配を長らく受けてきました。戦後、アジアやアフリカと同様に太平洋島嶼国も独立の道を目指しました。現在、太平洋には22の政治単位があると言われています。それをちょっと整理してみました(スライド14)。