やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

筒井清忠著『近衛文麿ー教養主義的ポピュリストの悲劇』

近衛文麿 ー その名前は知っていたがどんな人物であったのかを知り始めたのは近現代史に興味を持ち始めたここ数年である。

そして、何が何でも知りたくなったのは、『南洋群島の研究』を著した矢内原忠雄が東大を追われた時に辞表を書いた相手であり、矢内原が激昂した蝋山政道と近衞とのつながりがあったからだ。

何よりも矢内原の恩師である新渡戸稲造をこの近衛文麿も尊敬していた事を知り、急に気になりだした。

手にしたのは、筒井清忠教授の『近衛文麿教養主義的ポピュリストの悲劇』。(岩波現代文庫2009年)

筒井清忠教授は民主党近現代史研究会で初めて知った。筒井教授は近現代史はあまりに複雑で「陰謀論」を持って来るとわかりやすいため「陰謀論」につい走ってしまう、というような事を講演で述べられていた。

しかし門外漢の自分にはどれが陰謀論でないか、判断する力はない。

そうしたら筒井教授ご自身が「近衛文麿」を書いているではないか。

近衛文麿教養主義的ポピュリストの悲劇』は小説を読むようなスリルに満ちた展開で、文庫本300ページの量だが一気に読んでしまった。

一気に読んだ理由がある。タイトルの教養主義的とは新渡戸稲造の事なのだ。

私が近衛文麿に関心を持ったのは新渡戸稲造とのつながり、しかも近衞の新渡戸に対する劣等感のような感情が、矢内原事件の背景の一つではないか?と想像していたからだ。

筒井教授ははっきり書いていないが、近衛文麿は、優柔不断というだけではなく、やはりあまりできが良くなかったようなのだ。しかも京大法学部を落第した事を自ら隠すようなイメージ操作をしている。そのイメージ操作は、出自と長身という外見もあって、メディアに大衆にさらに加速されてしまう。ここにポピュリストが誕生し、大衆の絶大な支持を得た近衛文麿を、ソ連のスパイ尾崎秀実も、帝国主義的侵略論者の蝋山政道も、軍部も、和平派も皆が利用してしまう。

筒井教授は自殺をした近衛文麿に対する朝日新聞のコメントを紹介し、「しかし責任を感じて自殺した人間に対する文章が”まだ自殺者が足りない”といわんばかりの内容であるのには驚かされよう。」(同著296ページ)と書いている。

近衛文麿の子息、近衛文隆氏がソ連軍の捕虜となり帰国前に病死、暗殺された、というのは色々な所で目にしていたが、近衛文隆氏を殺したのは日本の大衆とマスコミなのである。

「ともあれ、戦前期に見られた過度のマスコミの脚光がソ連による彼の過大評価となり長期にわたる拘束とその悲劇の死につながったのは間違いのないことだといえよう。」(同著161ページ)

最後に新渡戸稲造との関係を書きたい。

これは筒井教授が書いていない内容なのだが、たまたまこの本を読む前に新渡戸稲造全集に納められている「米国の対日態度に就いて」(改造 昭和8年5月)を読んでいた。

新渡戸は1932年には米国に渡米。日米関係の修復に命を削っていた時だ。1933年10月にカナダで客死。ちょうど近衛文麿が渡米の動きを見せた時期と重なるのだ。

筒井教授の記述を読むと、近衛文麿は新渡戸を尊敬しつつもその中身を理解していなかったようなのだ。新渡戸も近衛を評価していた様子はない。しかも近衛は米国訪問に、「あの」帝国主義的侵略論者の蝋山政道を同行させている。

近衛文麿は、尊敬する新渡戸稲造教養主義を目指したのかもしれないが、それは全く違った方向に、しかもポピュリストに祭り上げた大衆とマスコミという悪魔に絡めとられてしまったのではないか。

1931年

満州事変

1932年

新渡戸稲造渡米 近衞外遊を試みるが断念

1933年

2月近衞「世界の現状を改造せよ」を発表

3月吉野作造死去

5月新渡戸「米国の対日態度に就いて」を発表

10月新渡戸カナダで客死   

秋昭和研究会創設

1934年

5月近衛文麿渡米 同月東郷平八郎死去

1936年

2月2.26

1937年

近衛第一次内閣 矢内原事件