やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

寝ても覚めても後藤新平

 

日比谷公園に行く度に、隅田川を渡る度に、後藤新平を思い出さなければいけなかったのだ。

矢内原、新渡戸の植民政策論を学ぼうと手当り次第に両者の全集を中心に読み散らかしている。

 

後藤新平。こわそうなおじさん、というイメージであまり興味がなかったが、確かに新渡戸を台湾に呼んだのは後藤新平である。一高の植民学の初代教授に新渡戸を推したのも後藤新平だそうだ。

それで手始めに、『時代の先覚者・後藤新平1857‐1929 』(御厨貴編集2004)を読んだ。

後藤新平は恐そうなおじさんではなく、来るもの拒まずの、相手を選ばない、誰とでも会う人物であったようだ。

そのため、後藤家は毎日客人のもてなしに大変だったとか。

 

1924年、きっと25歳の笹川良一青年は67歳後藤新平に会っている!と思った。

笹川良一青年は吉野作造に文句を言いに会いに行ったのに、いつの間にか弟子になり、吉野に後藤を紹介してもらったのだ。

 後藤新平の会、後藤新平日記研究会、後藤新平記録集成プロジェクトと、活発に後藤研究がされているようだ。そして後藤新平に関する本も多く出ている。

 

矢内原と新渡戸だけでも手に負えないと思っていたのに、後藤新平まで勉強する必要があるとは!

それにしても時代が違うとはいえ、隠し子、お妾さんがいた後藤新平と、再婚(矢内原忠雄は不倫をしたわけではなく、病で妻を亡くし、2人の幼い子供がいた)に罪を感じ、息子に対し産みの母親の存在を否定した矢内原の人間のスケール(価値観)の違いが大きすぎて、戸惑っている。

まだブログに書けるほど読み込んでいない。が、ここ数週間は寝ても覚めても後藤新平。