やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

<読後感想>「第二次世界大戦前における「植民地」言説巡る一考察」木村幹著 続き

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木村論文は最初にざっと読んで非常に面白くすぐに感想を書いた。

木村氏のご専門の韓国の箇所だ。朝鮮在住日本人ジャーナリストや軍人が、朝鮮が南洋の植民地と同じとは何事か、と韓国を日本と同化、皇民化する動きに出た、というところだ。南洋も同化、皇民化が進められた時期があったようだが、詳細は調べていない。しかし現地の文化を大切にする、後藤新平の植民論「ヒラメと鯛」理論はある時期までは尊重されていたはずである。

矢内原はフランスの植民研究論文で日本の同化政策に科学がないと批判していた。1933年、新渡戸は日本を滅ぼすのは軍閥か共産党、どちらかというと軍閥と言って命を狙われることになった。そんな時代的背景も理解しておく必要があるであろう。

さて、木村論文でいくつか気になった箇所がある。

例えば110ページの「その背景に存在したのは「植民地」の範囲を厳密に「国際法上の領土」に限定した場合・・」という山越と矢内原の議論である。木村氏は、矢内原は委任統治や租借地を植民地に含めるために、植民と解釈したと理解されているようだが、それは矢内原の委任統治の研究を読めばそのような拡大解釈という理解にはならないはずだ。

また111ページで矢内原が後に植民の範囲に委任統治を入れたと書かれているが、委任統治制度はベルサイユ条約で提案され、それが実施されたのは1922年以降。これを持って論文に入れたはずなので「必要に迫られた」という木村氏の理解は疑問を持たざるを得ない。

なお、この委任統治領の主権の問題はワイマールとナチスドイツの植民地奪回の動きと密接に関係があり法的議論は古い論文だが田岡良一氏のものがある。私はまだ半分しか読んでいない。国際法上の委任統治の主権に関する解釈は結論が出ていないはずである。

 

パリの講和会議で併合を否定したウィルソンと、自決権を主張したレーニンの動きは木村論文には出てこないのだが、「植民」が悪い事、「自決権」が良い事と、科学的な植民の議論を無視しイデオロギーとなったのはこの時からではないかと私は考えている。

矢内原は植民を一社会現象と書いている。彼の植民の科学的議論は新渡戸同様アダム・スミスの「国富論」が基盤となっている。スミスはギリシャ、ローマ時代の植民から議論を開始して英国のアメリカ大陸の植民を分析、批判し、提言しているのだ。戦前、もしかしたらレーニン、ウィルソンが主張する以前だったのかもしれないが、日本ではスミスの植民論がよく研究されていただのだ。そしてそのスミスの植民政策の影響を受けたであろう英国の植民を後藤新平は倣って台湾の植民を進めたのである。

 

木村論文に出てくる「植民」に関する議論を展開した人々は植民とはまた主権や領土問題を扱う国際法を勉強していたのであろうか?少なくとも南次郎も京城日報社の記者もしていない。学問として植民を研究していた専門家は悩んだであろう。軍部を批判した矢内原は1937年12月に東大を追われる。そして2度と植民研究はしないと誓ったようだが、1941年植民の意味を全く理解していない軍人が矢内原の家を訪ね、またこの戦争が英国との戦争であると認識した矢内原は新渡戸の植民政策の本を1942年に9月15日に書き終えるのである。(出版は1943年)

 

木村論文はこの新渡戸の植民政策の本にある植民の定義の箇所を参考にされている。第5章の「植民地獲得の方法」は読まれたのだろうか?必要ないという判断をされたのか見過ごされたのか?ここの第11項が「合併」である。朝鮮併合を伊藤公に数時間に渡って、しかも朝鮮まで行って現地視察と共に進講したのは新渡戸である。であればなおさらこの新渡戸の合併の項は重要であろう。

書き写しておきたい。

 

第11項 合併 Annexation

 之は保護国の一歩進んだものであって、ここに到れば純然たる植民地である。米国が1845年にメキシコの一部たるテキサスを取ったのもその一例である。

 近年オーストリアがボスニア及びヘルゼゴビナを合併した。但しオーストリアが事実上之らの土地を取ったのは30年前のことである。ヘルゼゴビナの人民はモンテネグロと共に勇敢な国民であったが、内乱のある度毎にその飛沫がオーストリアに飛んだ。そこでオーストリアは自国の安寧を防衛する為め、その地の主権はトルコに留保し、統治をオーストリアに委任せしめた。而してオーストリアは始め警察のために憲兵を送り、更に軍隊を送り、かくして三十余年後の遂に合併したのである。

新渡戸稲造『植民政策講義及論文集』p. 97-98  新渡戸稲造全集第四巻、昭和59年 教文館、東京。