やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

第二回太平洋島サミット

「小渕総理に沖縄での太平洋島サミット開催を進言したぞ。島嶼国基金で何か手伝えないか?」

1999年の年末だったと思う。笹川陽平に呼ばれた。

 

エー! 小渕総理?と心の中で叫びつつ、ここであまり大風呂敷を広げて「じゃあやってみろ」と言われたらまずいので堅実な提案をした。

「ジャーナリスト招聘ができます。サミットのパブリシティで支援できます。」と応えた。

 

私は10年近く太平洋島嶼国と日本のジャーナリスト交流を行ってきたのだ。日本政府が招聘すると島嶼国政府の息のかかった現地メディアしか来ないし、地域で一番発信力のあるグアム、サイパン、ハワイのメディアは勿論対象外だ。

ここら辺のツボを抑えている私がアレンジしたメディアカバレッジは成功し過ぎたと思っている。その後、中国、台湾、フランス等々が続々と島サミットを開催し始めたのである。

 

<役者が揃い過ぎていた2000年の島サミット>

日本政府が最初に島サミットを開催したのは1997年の橋本政権だった。しかし、行政改革の嵐が吹き荒れる中、10数名の島嶼国首脳を招聘しておきながら橋本首相はちょっと顔を出しただけ。後は政務次官か誰かに任せっきりだったのである。

この事を後日教えてくれたのはパラオのナカムラ大統領だ。「あの会議は酷かった。」と言われた。

1997年のサミットの目的はプルトニウム輸送懸念の決議を毎年採択していた太平洋諸島フォーラム対応だったのだ。電事連が10億円の基金を設置しお茶を濁そうとした。

だから、2000年の島サミットが実質的に初回という認識はある意味正しいと思う。

真剣に島嶼国支援を検討し始めたサミットと言ってよいであろう。

小渕総理、そしてサミット直前に亡くなられた小渕総理を引き継いだ森総理。当時の外務省大洋州課課長は宮地昭夫氏(現在内閣府国際平和協力本部事務局長)。島嶼国基金運営委員長は東京大学渡辺昭夫名誉教授。今思うと役者が揃い過ぎていた位の面々である。

 

<オールジャパンのフォローアップ>

私の関与はこれで終わらない。

2000年の太平洋島サミットは同年開催された「九州沖縄G8」につながり通称「IT憲章」と呼ばれる「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」を採択した。これもフォローした。

2001年、初の外務省、JICA, JETRO共催というオールジャパンのフォローアップ会議がフィジーで開催されたのである。私がアレンジしパラオのナカムラ大統領と森元総理の参加を得てICT支援を強調した。これが南太平洋大学のJapan-Pacific ICT Centerという大型ODA案件につながった。同大学の遠隔教育ネットワークUSPNet再構築という第一回島サミットODA案件も、私が1991年から利害関係者との協議を重ねた結果である。