やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

台湾民族運動は板垣と日本マルクス主義者の仕業だった!

ちょっと寄り道。

中国の開発支援について台湾人の友人と協議していたら日本の台湾植民の話になって、矢内原の『帝国主義下の台湾』(矢内原忠雄全集第二巻。1963年。岩波書店)の「第5章民族運動」だけ読んでしまった。

この本は、いつかじっくり読みたいと思っていたのだ。

日本の植民地だった台湾の民族運動。火をつけたのは日本人だった!

まずは大正3年11月板垣退助が来島して台湾同化会を組織し、板垣は総督府からすぐに追放された。同化会は翌年解散したが、これが台湾の政治的運動に発展した。(378頁)(確か瀕死の板垣の命を救ったのは後藤新平だったはず。)

続いて昭和2年には台湾農民組合と文化協会は共に日本の労働農民党の指導を受けてマルクス主義へ転向(382頁)したのだそうである。

大正10年10月に蔡培火氏他が設立した文化協会は当初自助的啓蒙的文化運動だったのがマルクス主義的傾向を有する20名ほどの台湾無産青年会が同協会に潜入し陰謀的行動を以て幹部の地位を乗っ取った、のだそうである。(380頁)オソロシイ!

同章は、台湾の民族運動は既に火がついたのであるから、かつての児玉後藤政治の方針であった「生物学的政治」に倣って実際の社会的状況に順応すべき、と結んでいる。で、これが帝国主義の発展が帝国主義的矛盾の発展である、と。(388頁)

平たく言えば良い父親の管理下で、子供は独立していく、そんな意味ではないでしょうか?

新渡戸も、矢内原も帝国主義、植民主義の支持者であった。しかしそれは西洋諸国がしてきたようなものでなく、アダム・スミスが『国富論』の中で一章を割いて議論している「植民」であった。

さて、この論文は1929年のものである。矢内原の師である新渡戸がジュネーブ国際連盟から戻って日本にいた時だ。新渡戸のアドバイスも入っているであろう。早く全部読みたい。同時に序文に下記の本が紹介されており、3千頁にもなるそうだが、これも開いてみたい。日本植民以前の台湾の歴史がまとめられているのだそうだ。

伊能嘉矩著、台湾文化志〈上,中,下巻〉 (1928年)

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