ミクロネシアの、即ち太平洋の、遠洋漁業は、南洋庁時代に、即ち日本の統治時代に、日本が、というより沖縄の海人が、開拓したのである。
FAOの資料(Robert Gillet, "A short history of industrial fishing in the Pacific Islands" 2007)を読んで始めて知ったのだが、裏を取りたい、日本語でも書いてあるはず、とネットサーフィンして見つけたのが下記の資料。
「戦前日本企業の南洋群島進出の歴史と戦略 -南洋興発、南洋拓殖、南洋貿易を中心として-」
丹野勲著、国際経営論集, 49: 13-36、2015年
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/12749/1/49-02.pdf
(著者丹野勲氏は神奈川大学の国際経営学の先生のようだ)
2015年とまだ新しいペーパーである。
沖縄の海人(うみんちゅ)は多分蘇鉄地獄を逃れて必死だったのでは?とここは想像だったがやはりそうだった。
(3)人口密度の首位たる沖縄県は、これを養うに足る産業を欠き、久しく蘇鉄地獄とさえ言われる惨状に沈淪していたのであるから、その過剰人ロの一部を余裕ある南洋に移すことは、国策上極めて有意義と考へたこと。(21頁)
南洋に沖縄の移民を沢山受け入れる事の背景が書いてあるのだが、1番目の理由は沖縄が内地の中でも最も人口過剰に苦み、早くから海外思想が発達し、既にサイパン島にも相当の進出を行っていたことを理由にしているのも興味深い。ちなみに2つ目がサトウキビ栽培の経験がある事が上げられている。勿論この中には海人もいたはずだ。
そして水産業に関しては下記の記述がある。
1931(昭和6)年には、南洋興発株式会社は大日本製氷株式会社と共同して南洋製氷株式会社を創設した。また、南洋興発は、南洋での漁業事業にも進出した。すなわち、昭和6年から日本の静岡の焼津水産組合と共同して南洋のパラオ、ニューギニアに到る海洋において鰹の漁業を開始した。(21頁)
矢内原の南洋群島の研究を確認したいが、会社経営になる前は、即ち1920年代に既に個人レベルでの漁業が開始し、成功していたはずである。
水産業と関係ないが、1931年にはオランダ領のドイツの会社フェニツクス商事開墾会社を買収してダマルの開発も成功している。(23頁)しかし1940年の時点ではオランダ政府の入国制限のため、現地には日本人40名だけ。パプアニューギニアの現地人3,200人を使役していた、とある。現地人のための教育・福祉施設も!
1940(昭和15)年当時の邦人従業員の数は、オランダ政府の入国制限のため僅かに40名に過ぎす、労力は主として本島のパプアニューギニアの現地人であった。南洋興発合名会社は、当時、ナミレ、モミ、サルミの3地を合わせて、約3,200名のパプアニューギニアの現地人を使役していた。この現地人のための社会施設として、オランダ人医師を置く病院、学校、教会、倶楽部、運動場等を設置した。(27頁)
その他、色々興味深い情報満載なのだが、一番心に残ったのが、1890年に貿易船天祐丸で南洋航路に挑戦した田口卯吉(幕臣の子)のコメントだ。以前書いたが明治維新で職を失った100万の武士がいたのだ。ここに新渡戸稲造や後藤新平も入るのだろう。 田口卯吉は1855年生まれ。新渡戸は1862年生まれである。新渡戸は田口の経済論も、この南洋航海も知っていたはずだ。
矢内原忠雄著『南洋群島の研究』を読む(1)
https://yashinominews.hatenablog.com/entry/2015/01/07/071648
拙者の初志は単に商業に止まるにあらず、東京府士族の有志者をして南洋に移住せしめ、一は以て其独立を助け、一は以て国威を伸べんと欲するにありしなり、今ま其実況を見て盆々之を信ずる深しと云ふ。明治二四年一月 田口卯吉 (16頁)
日本の南進は、維新で職を失った幕臣、武士の希望でもあったのだ。