やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平の植民政策(2)「日本植民政策一斑」

大正3年5月20日、6月5日、6月20日の3回、幸倶楽部で行われた後藤新平の講演の記録「日本植民政策一斑」が国立国会図書館デジタルコレクションで読める。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980879?tocOpened=1

先にも書いたが昔の漢字、文章がわからないのと、台湾、満州の背景が全くわからないため、半分も理解できなかった。

が、ところどころ、面白記述があったのメモしておきたい。

第一 緖論及び日本植民政策の史的經濟的關係/1〜35

「伊藤公爵さへも此事については能く考えられて居らなんだ。」(p. 2)

後藤が批判する伊藤公の件は台湾の植民政策の事だ。後藤は台湾こそが日本の植民の第一歩であると述べる。その前に北海道があったが、これは米国の植民計画を上手く消化できず、不発に終わってしまった、すなわち植民政策にならなかった、と述べる。(p.4)

そして、18世紀からの欧州の植民の歴史に触れ、英国が植民政策で抜きん出ている事を指摘する。(p. 9-11)

後藤は植民政策をよく研究、分析している。これを読むと新渡戸の先生は後藤であったのであろう、と思う。

台湾に病院を立てたのは「信愛の情に出たる人道主義の文明植民政策なのです、」(p. 24-25)と説明。こんな箇所は誰も引用していないであろう。「植民」と聞くと眉をしかめる反応しかできない人たちばかりだ。

そして、台湾植民の成功は、後藤の上司であった児玉源太郎総督が台湾ではなく、日本の内閣の頭脳を開拓したからだ、と説明している。(p.25) 

後藤新平、豪快すぎる!

第二 帝國の滿洲に於ける特殊の使命/37〜99

ここでは後藤が満鉄総裁を受けた経緯が書かれている。

普段は意見がぶつかる事がなかった児玉から頼まれ、4時間に渡って意見が衝突し、児玉邸を後にした。その翌朝児玉は亡くなる。1907年。後藤は満鉄総裁を受けざるを得なくなる。

この総裁就職に付き後藤は、山形元帥、西園寺首相、林外相に長ーい所見を書いている。ある意味お説教である。例えば植民経営は官僚にまかせはだめとか(p. 61)、特に「従来外務省の植民政策に於けるや空疎不振に久しと云うべし」(p. 63) は笑ってしまった。

「空疎不振に久しと云うべし」 なんか、今でも使えそうな用語である。

そして滔々と後藤の植民政策が続くのだが、豪快、あくまでも豪快。

「高等植民法を行ふて米大陸の植民政策を助くることは余程有力なる事柄であらうと考えております。」(p. 81)

米国の植民政策、後藤も見ていられないほど酷かったんだ。今と変わらないんだ。

第三 植民政策の基礎となるべき間接設備の効用/101〜126 は抜かして、「兒玉總督就任の當初施政方針を聲明せざりし事」が面白い。

児玉総督が演説案を起草せよと指示したところ、後藤はその時期ではないと紙2、3枚で説教している。後藤が書いているが、児玉は素直に受け止めて声明を中止した。

新渡戸がこの2人のことを偉人伝に書いている。再読したい。

後藤の「土人教育」。

今では差別用語になるのかもしれないが、土人は当時は土地の人、先住民という意味で差別的ではなかったはずだ。後藤はこの土着島民の教育、及び歴史、文化、社会をよく知ることが重要と強調する。これは生物学を行政に応用した、即ち有名な「鯛と平目理論」が基礎にある。

新渡戸の地方の研究は後藤の影響かもしれない。そしてそれが柳田國男に伝播したのである。

チャタムハウスのライオネル・カーティスも、ドイツのカール・ハウスフォーハーも後藤や新渡戸に会っているのだ。後藤の、そして新渡戸の日本式帝国・植民主義、政策は英独始め世界に伝播したのではないだろうか?必ずしも正確に伝わっていない、としても。。