坂元茂樹教授の講演を聴きに東京に出たところ、後藤、新渡戸に続き台湾を開拓した八田與一の講演会があると言うので足を伸ばした。
お孫さんの八田修一さんによる講演であった。
銅像の首が切られた後、随分早く修復できたのだなと思っていたら以前このブログでも紹介した台湾の許文龍氏が八田氏の銅像を3つ位持っていて、その一つを利用した、という。首の接着は簡単だったらしいが、おでこに当てた手の調整が困難だった、との話も。
八田與一の生涯を知ったのも初めて。しかもお孫さんから聞くというのは貴重な経験だった。
八田與一は1910年東大で廣井勇の教えを受け卒業。1910年と言えば新渡戸が同じ帝大で植民学を教えていた頃だし、廣井勇は新渡戸の札幌農学校の同級。八田與一は新渡戸からも植民学を学んでいるであろう。
そして八田與一のダム開拓だ。労働者とその家族のための住居、病院、学校、お祭り、。。。
これ、後藤新平である。きっと八田與一は後藤新平にも会っている。少なくとも後藤の植民政策を参考にしている。
質問した。
「八田のみならず、後藤、新渡戸の台湾での業績は、李登輝や許氏の本で初めて知ったのだが、日本ではなぜそんなに知られていないと思われますか?」
「日本が戦争に負けたからでしょう。」
大きく頷いてしまった。
本当は、終戦後ダムに身を投げて八田の後を追った奥様の事も聞きたかった。子供8人を遺して、である。残されたお子さんの一人が、講演者八田修一氏のお父上。戦後相当な苦労があったのではないだろうか、と頭を巡ったが、流石に聞けなかった。
<参考>
この問題が政治的である事を知る記事があった。
後藤、新渡戸、八田などを自由に語れない理由に現在の台湾政治の状況もあるのかもしれない。
「鄭成功」「八田與一」「蒋介石」――台湾「歴史評価」の難しさ 野嶋剛