やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

シュタイン、マルクス・エンゲルスと迎える御代がわり(3)

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「搾取論」に関しては色々と考えさせられる点が多い。労働とは何か?お金だけが労働の評価指標か?人間は何のために働くのか?と言った議論がマルクスにはないし、小泉もしていない事が気になった。

マルクスが無視した政治面からの「搾取」即ち労働価値を賃金以外で評価する「搾取」はどうであろうか?労働者(被雇用者)と雇用者、生産者と消費者、もしくは投資者と生産者の間で。例えば、一般的に労働者は雇用者よりも立場が弱い。これを労働組合や労働者を守る法律の整備などによって身分を守る行動が取られている。生産者と消費者はどうであろう?経済学に「レモン市場」という理論があるが、商品の情報格差から消費者はしばしば粗悪品を売りつけられる可能性がある。逆に消費者が商品を選ぶが、商品は消費者を選ばない。過大宣伝活動によって不要な消費を促進するケースもあるであろう。賃金以外で「搾取」もしくは不当なやり取りが行われているケースは多いであろう。

 開発論の中でも「搾取」という言葉は頻繁に出てくる。ただし小泉が指摘するようにその意味を本当に理解しているのであろうか?植民者が被植民者を搾取するとよく言われるが、被植民者が植民者を搾取、もしくは利用していることは議論されているであろうか?植民の歴史を知ればそのようなケースも多くある。被植民者が植民を促したり歓迎するケースもある。また、途上国が先進国から搾取されているというのが通常の議論だが、その逆は有りえないであろうか?

 ここで海洋資源、漁業資源をめぐる先進国と途上国の話を書いてみたい。遠洋漁業大国の日本は世界にその漁場を開拓し、途上国の漁業資源を搾取しているとしばしば批判される。まずその漁業資源は誰のものか?「人類共同の財産」である海洋資源は、新興国家の途上国のためにその経済的利用が優先されている。ここで日本が締め出されるのは漁業資源の開拓からか搾取からか? 太平島嶼国に限って議論すれば、これらの島が広大な遠洋で漁業をした歴史はない。市場のないところに漁業産業は成り立たないからだ。即ち彼ら自身では自らの排他的経済水域では漁業ができないため、漁業権を日本始め漁業技術と市場を持っている漁船に販売しているのが現状である。この漁業権の価格が市場価格に比べ安いと、これは世銀が島嶼国にアドバイス(唆して)をしてOPEC (Organization of Petroleum Exporting Countries)ならぬOTEC(Organization of Tuna Exporting Countries)のような小島嶼国の連携強化を呼びかけ、漁業権の価格を一気に2倍、3倍と引き上げた。いったこの動きの中で、漁業権料を一気に釣り上げる島嶼国と先進国のどちらが搾取していると言えるだろうか?そもそも過去の経済活動とは関係なく「接続性」adjacencyという概念で資源を囲い込み、不当に釣り上げることは「人類共通の財産」を守ることに関係しない。「搾取」しているのは漁業国の日本か、管轄権を持つだけで管理も開発もしない、もしくはできない太平洋島嶼国ではないか?

 EEZは沿岸国の有権ではなく「管轄権」だけを国連海洋法条約で決められている範囲内で執行でいる。太平洋島嶼国の場合条約の合意事項も理解できておらず名前だけの「管轄権」でとも言える。しかも遠洋の魚は高度回遊魚と言ってその200海里内に留まっているわけではない。それでも太平洋島嶼国は魚の権利を主張し、冷戦下で国の数の力を最大限に活用しこの権利を勝ち取った。これらの動きはGreg Fryなどによって島嶼国の地域協力による勝利と評価されている。

 繰り返すが権利に伴うのが義務であるはずだが、途上国の小島嶼国はその義務を果たす能力がないばかりか、漁業規則を守らない台湾、中国などの漁船に便宜置籍船と称する自国の旗を貸すビジネスまで展開しているのが実態だ。

 これらの活動を可能にするのは、まさに小泉が指摘する「搾取」という言葉の背景にある「不知不識のあいだにマルクス主義是認の空気を広げ、現資本主義を非難する感情を一般世人にゆるす誤りをおかしている…」という解釈、諫言すれば「漁業資源を搾取されてきた太平洋島嶼国が自分たちの権利を国際条約によって確保し、政治的独立ばかりでなく経済的独立を目指している」という一般人の共感を得ようとする誤りの認識ではないか。

 「厳密なる学術語としては恐らく通用不可能」な「搾取」という概念に関連して「植民」という概念も「不知不識のあいだにマルクス主義是認の空気を広げ」る中で資本主義を非難する感情とともに一般世人に受け入れられている、のではないか。その流れの一つが国連決議になった植民地独立付与宣言(1960年、決議1514(XV))である。搾取からの解放、即ち植民からの解放を「自決権」というイデオロギーが国際法の法源として構築されているのだ。(最近のチャゴス諸島判決も自決権が判決の主要テーマであった。)「自決権」に関しては博士論文の理論枠組みとして読んできた資料を列挙し、次の「6階級と民族 — 歴史的叙述—」で議論したい。