やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

ニューカレドニア便り(2)

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昨日はニューカレドニア博物館とチバウ博物館へ。

ニューカレドニアの歴史はボワとしか知らない。


まずはフランスの植民だ。1878年のカナク人(先住民)の写真を見て欲しい。ニューカレドニアが正式にフランスの植民地になったのが1853年である。その25年後だ。これが植民地支配で圧迫を受けている人々に見えるであろうか?隆々とした筋肉。太々しくさえ見える威厳。確かに欧州人は「高貴な野蛮人」と形容したであろう。
そしてきっと多くのフランス人が殺され食べらたであろう。勇敢な武人である太平洋の人々が黙って植民されるわけがない。

ニューカレドニアはフィジーと同じく30以上の部族が常に戦っていた状態であったはずだ。そしてフランス人はその内部抗争をうまく利用して植民を進めたのかもしれない。

ラピタ土器と命名されたのはこの地である。原子力の科学的発展で年代が計測できるようになったのは1940年以降。核開発は考古学に偉大な貢献をしている。写真の石の道具は全く同じ形のものが縄文土器にもあるのだそうだ。数千年前、日本とニューカレドニアは交易をしていたのかもしれない。

独立派を率いたチバウが融和的な協定をフランス政府と締結し、仲間に暗殺されたのが1989年。ここからニューカレドニアの苦難の道がまた始まった、とも言えないだろうか?問題は独立派に開発計画、政策があるか、だ。バヌアツは国父のウォルター・リニ閣下がしっかりした開発計画を独立以前に作成していた。多分英国政府の支援を受けたのであろう。