やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

<読書メモ>『太平洋戦争とアジア外交』波多野澄雄著

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 2019年6月、珊瑚礁海戦の連合軍後方基地、南太平洋のペンタゴンと呼ばれたニューカレドニアのヌーメアで「日本の戦争目的は東亜の解放でした」と叫んできた。オーストラリア国立大学主催の学会でテーマが「自決権」だったのだ。

 インド太平洋構想の歴史的背景としてアジア主義の論文を探していたら渡辺昭夫先生がレベルの高い論文として波多野澄雄先生のアジア主義を推薦されていた。読んだら重光だった。東京帝国大学法学部を卒業した重光が新渡戸の植民政策講座を知らなかったわけはない。1943年に矢内原がまとめた新渡戸の植民政策学の本の意味を知らなかったわけはない。重光が、また石井菊次郎が主張した「東亜の解放」は新渡戸の世界秩序、植民政策が背景にあったはずである。(1919年のパリ講和会議に重光は若手外務官僚として参加していた。新渡戸と話をしていないはずはない。同会議を一大茶番劇と評した後藤にも会っているはずだ。)

 ニューカレドニアのでの学会発表の前に波多野教授のペーパーを何本か読んでいたが、肝心の書籍「太平洋戦争とアジア外交」はパラパラとめくっただけであった。そのことを反省し、この夏休み数日をかけて熟読しようと思った。

 やはり「東亜の解放」即ち自決権、独立の話がメインである。そして重光に言わせれば「空手形」の大西洋憲章でうたわれた「自決権」に対し、日本の戦争目的を含む太平洋憲章(大東亜共栄宣言)は「生きた政策である、現実政策である。」と重光は書いている。(「重光葵手記」1986年中央公論328−330頁)

 これは1960年の国連決議1514号に重要な背景である。フルシチョフが靴でテーブルを叩いた演説(実際には靴を持っていなかった)に代わって提出された途上国からの自決権の案を支持する背景となったのだ。重光が言う「生きた政策である、現実政策である。」としての自決権だ。 

 大東亜戦争が始まると同時に国内で戦争目的に関する戦争が開始されていたのである。資源囲い込みの軍部(海軍?)と東亜の、資源の解放を主張する外務省だ。

 もう一人軍部に対抗したのが天皇陛下だったのかと思う記述がある。「太平洋戦争とアジア外交」83頁に東條首相に天皇より3つの「御言葉」があったことが書かれている。八紘一宇を力を持って進めようとする軍部への批判、大東亜省設置に向けた軍部主導批判、そして対シナ政策批判である。1942年、昭和天皇41歳。強靭な精神なくてしてこのような対応はできない。胸が潰れそうだ。 

 最後に一点。波多野先生は「植民」と「独立・自決権」を二極で捉えていないだろうか?後藤、新渡戸、矢内原の植民政策をここ数年読んできた自分にとって「植民」「独立・自決権」は同じ線の上にあるのだ。その事を少なくとも重光は認識していたはずで、その視点で一次資料を読むとまた違った解釈になるような気もする。

 

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