やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

1901年以降のオーストラリアの国防政策

ハワイにあるアジア太平洋安全保障研究センター (The Daniel K. Inouye Asia-Pacific Center for Security Studies ー DKI APCSS)のジェレミー・ブラウン少佐が書いた6ページのオーストラリア国防政策。斜め読みして面白いと思いつつ、しっかり読む時間が取れなかった。

インド太平洋戦略を語る時、オーストラリアとの関係は意外と理解されていない。まずはその歴史を知る必要がある。ブラウンペーパーは研究者が3つに分けるオーストラリアの国防政策に沿って吟味して行く。

1901−1945の帝国防衛概念

1950−1975の発展的防衛概念

1975−1997のオーストラリア防衛概念

 

帝国防衛概念とは言わずと知れた英国の一部としての防衛活動である。典型例が第一次世界大戦への参加だ。そしてこのペーパーで確認されるオーストラリアのミドルパワーという概念が1945年の国連の会議で初めてエヴァット首相から戦後のオーストラリアの重要な外交的地位を確立するための提案であった。

エヴァットのミドルパワーの定義

‘those states which by reason of their resources and geographic position will prove to be of key importance for the maintenance of security in different parts of the world.’ 

 

1950年以降は、ヨーロッパの価値観を持ったアジアに位置するミドルパワーの国家として、共産主義に対抗する形で外交、国防政策が模索される。さらに1968−1975年はオーストラリアが太平洋に舵を切った時期である。その背景には米軍のベトナム戦争で撤退、シンガポール、マレーシアから英国が撤退したことによる太平洋の空白、そしてニクソンドクトリンによる自立の促進。

1976年に初めての防衛白書が作成されるのだ。1987、1994と作成される。冷戦中のソ連の太平洋におけるプレゼンスに対する警戒は、冷戦終結後もミドルパワーと自立の2つの防衛外交概念は継続されることになる。

最後にブラウン少佐はオーストラリアのミドルパワーは、唯一日米との三ヶ国協力によって維持されるであろう、と結んでいる。米国は豪州の限界を知っている。私も10年目の前で見てきた。最初は呆れ果てる、そして軽蔑に、そして同情に。。

ブラウン少佐が最後に日本との協力を入れてくれた事は感謝したいが、オーストラリア外交国防政策に関連し忘れてはならないのは、オーストラリアの一貫した排日主義(白豪主義)である。そして徹底的に無視される第一次世界大戦での日本軍による支援。さらに1972年に開始したUNCLOSの協議は広大なEEZの資源を根拠に太平洋島嶼国を独立させ実質的には日本漁船を追い出して豪州が太平洋を管理するという、無謀な政策であった事だ。