写真は左から松岡、横田、秋山、山屋
本を書く為に資料を再読するとどんどん新しい発見がある。
松岡静雄 ー 柳田国男の弟にして海軍大佐として第一次世界大戦では山屋他人海軍大将の指揮下でポナペを占領した。
1921年に病気で退役したと至る所で読んでそう思っていたが、平間洋一先生の論文にそれだけが理由ではない事が書かれていた。
「松岡は病を得て海軍を去ったといわれているが、 自伝には「考える所あり願い出で海軍を退く。 此間当局に建白書を奉ること数度」と記されている。 何を建白したかは明確でないが、退職後に「欧州及印度南洋関係の好転をはかる」ため日蘭交通調査会を起こしたことから、 その建白は南進論であったが受け入れられず、 また病弱なことから指揮官への道を閉ざされたためであったかもしれない。」
松岡静雄ー南洋研究の先覚者1879(明治12)年~1936(昭和11)より
http://hiramayoihi.com/yh_ronbun_senngoshi_mastuoka.html
平間先生は「何を建白したかは明確でない」と書かれているが、松岡自身が自著『ミクロネシア民族誌』(1927年に岡書院発行。私が参照したのは1933年岩波書店)に書いている。
「・・・私はスペイン時代からの公文書に一わたり眼を通し、司法行政財政に関する現行法規慣例を調査し、ジョカーシ、ウ、ナット、ロンキチの各地を巡視して民情の観察、島民の懐柔につとめた。上代の遺跡のあるマタラニムに行く機会のなかったのは私の終生の恨事とするところであるが、約二週間の短時日の作業としては私の収穫は決し少なくはなかったつもりである。私はこの調査にもとづいてポナペ開拓論一篇を草して上司に提出したが、廰堂までは達せず握りつぶしの運命に逢うたのは是非もない事であった。」
松岡が作成したのは「ポナペ開拓論一篇」であった。そしてそれは「握りつぶしの運命」に軍部内であったのだ。握りつぶしたのは誰か?山屋大将か秋山中将か?
もし「ポナペ開拓論一篇」が軍部で真面目に議論されていれば、軍政下の南洋群島で軍人による暴行はなかったであろう。救いはこの『ミクロネシア民族誌』を軍政廃止後の南洋庁長官横田郷助(1923年4月1日〜1931年南洋庁官)が調査の支援をし南洋庁が120冊を購入した事だ。国内では50冊しか売れず岡書院の財政を圧迫した。