やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

田岡良一『委任統治の本質』1941 (前編)

f:id:yashinominews:20200723104110j:plain 田岡良一博士(1898年 - 1985年

先日再読した等松博士の南洋群島の序章に委任統治研究の概略があった。以下の4点が挙げられている。

  • 田岡良一『委任統治の本質』
  • 古垣鉄郎"Les Mandats internationaux de la Societe des Nations" 1923 (博論)
  • クインシー・ライト(Quincy Wright)Mandate Under the League of Nations 1930
  • 立作太郎 国際連盟規約論 1932

太平洋島嶼国など、現在とても国家として成り立ちようがないような小さな島が独立した背景にはこの委任統治の制度がある。自分の研究範囲の海洋法で議論する際、委任統治は直接は関係ないように思っているが、国際法の流れの中で少しは触れたいとも思っていた。

田岡良一『委任統治の本質』1941がウェブで入手できるので、少し読み始めたところ、面白い!委任統治制度の歴史、ビスマルクから始まるのだ。1800年代の進歩的植民政策。

田岡も古垣も、同じく委任統治を議論している矢内原も、さらに関係を断絶した柳田も、みんな新渡戸の生徒だと思う。

これから読み進みるので、ここにメモを残したい。

 

- - - メモ1- - -

本構成だが大きく2つに分かれる。前編として「委任統治制度の成立史」後編「委任統治の主張に関する学説の研究」そして「結論」だ。

昭和16年2月に序文が書かれている。発行は同年6月。田岡氏の思想、政治的立場を知らないのだが、武力ではなく政治で、法で解決しようと思われたのではないだろうか?結論を先に読みたいところだが、昨日から前編「委任統治制度の成立史」を読んでいる。

委任統治に関するベルサイユ条約の条項がそもそも曖昧なのでその歴史を見る必要があると序文にある。それは1919年1月24−30日の会議の様子だ。これがテレビドラマを見るようで面白い。後藤新平が一大茶番劇を見に行こうと新渡戸を誘ってパリに行った意味がわかった。本当に茶番劇なのだ。ウィルソンを追い詰めていく老獪な英國全権ロイド・ジョージ!

序文には国際法をどのように論じるべきか、という私にとって国際法の博論を書く上で非常に参考になる記述がある。まず自分の解釈を棚に置いて客観的尺度を得る。その客観的尺度とは条約の、すなわち国際法の「成立史上の事実」であると明言している。ここは私が最近気になっていたところだ。条文に固執するあまりその本来の意味が失われている。UNCLOSの島の制度でありEEZの意味である。

委任統治の起源の一つはビスマルクだった。奴隷制に関する国際会議は

1815年ウィーン会議、

1885年ベルリン会議、

1890年ブリュッセル会議

が挙げられている。

奴隷廃止の歴史はさらに古い。

1791年英国で禁止運動が起こり、

1792年丁抹では奴隷売買禁止令が。

1807年英国で奴隷売買禁止令が発効

 

1885年のベルリン会議でビスマルクが土人の保護を力説したのだ。土人の保護、に関しては矢内原か新渡戸が概説していた。それまでは奴隷だったのだ。すなわち植民地から出た西洋諸国に奴隷として存在する土人たちへの対応が議論されていた。ビスマルクの言った土人は植民地内にいる土人。すなわち今の途上国開発に繋がるであろう人材育成や人権問題・・ なおここで使う「土人」が現地人の意味で、差別的含意はない。差別したのは先進国の学問のないプロレタリアートだと思う。弱者をいじめるは弱者だから・・

 

- - - メモ2- - -

61ページから「十人会議の委任統治決議とウィルソン案との相違」と言う数ページ。8点についていかにウィルソンの委任統治案が骨抜きされたか、詳細に分析されている。

簡単にまとめると、ウィルソンが掲げた自決権・非併合の二原則は全く無視されたのだ。しかし各国はウィルソンの顔を立てるために「委任統治」と言う言葉を残したに過ぎない。(最終的にトルコだけに適用)しかしこの「委任」と言う言葉も法的な委任お解釈とは全く違う、言って見れば普通の植民でしかなかった。土民保護というのは1885年ベルリン会議でビスマルクが強調したことであり別に目新しくもない。

 

68ページにある「後見」の私法的観念による学者の解釈は、この条約の成立史の研究を見れば言葉は残っても十人会議の結果根本的変化があった、即ちウィルソンが目的とした内容とは違ってきた、ということである。

結局は旧独領は日英仏に併合された。「委任」という言葉によって。

しかし、仏正文も英文もまたこれに寄ってドイツ語訳された条約も、委任関係は受任国と連盟の間にあるのであって、主たる同盟国(日仏英伊)であるという解釈はできない。ドイツもそのように解釈していた、という点が重要だ、とのこと。

委任は連盟から受任国ではあっても、領土分割は主たる同盟国がしたのである。よってドイツの植民領土奪回は連盟の消滅によっても発生しない、というのが立作太郎博士の主張だった気がするがこれは再度博士の論文を読まないとわからない。

 

委任統治 ー ウィルソンが自決権と非併合を、米国の利益のために推進しようとしたが、その二原則は奪われ、言葉だけの制度となった。しかし、連盟との関係でドイツの植民地返還という解釈も可能になった、ということであろうか? とにかくナチスの台頭でドイツ植民地をめぐる各国の動き、特に日本のドイツへの接近は、今度の本で紹介した三輪公忠氏の議論が重要なのだ。問題は、戦争の軍事研究だけでこの分野 ー領土ー の議論が全くされていない、ことだ。

 

- - - メモ3- - -

前編の「委任統治制度の成立史」を読み終えた難しい議論だが、国際法の議論の「仕方」としても、また今につながる島嶼国の独立、自決権の議論にも重要な話で、じっくりと読んだ。

第二節「巴里平和会議に於けるドイツ植民地問題」は五款に別れている。

第一款 ドイツ植民地の処分に関する二つの企画

第二款 連盟規約二十二条の成立過程

第三款 ヴェルサイユ条約119条の成立過程

第四款 最高会議に夜ドイツ植民地の分配

第五款 委任状(委任統治条項)の作成

 

「委任」の関係についても複雑だ。そもそも「委任」という法的行為は私法用語で、国家間、国際的な行為として馴染まない、無理があることも議論されている。「委任」に関しては主同盟国と受任国の関係ではなく、連盟と受任国の関係という解釈しかありえない、と田岡は主張する。(79ページの注64)しかしドイツ領の配分は主同盟国の決定なのだ。それが119条。つまり受任国の決定は主同盟国(米も含む)が決定するが、「委任」は連盟が行うとう二重構造と理解して良いのではないか?

その背景には、ウィルソンの米国の現実的思惑があることを田岡博士も、もちろん同盟国も見抜いていたのであろう。即ち第一次世界大戦に遅れて参戦し、分け前がもらえないどころか、安全保障条もっとも重要な太平洋の制海権を日本に取られてしまうことをいかに阻止するか、という現実的問題である。その解決のために非併合と自決権を唱え、連盟に全ての権限を移し、実際は米国が支配しようとしたのである。しかしそれが老獪な英国政治家たちによって打ち崩されたのだ。

それでも田岡博士は結論で、委任統治という言葉も残ったし、連盟もできた。ウィルソンの思惑は軍事と経済の自国利益だけでなく、世界平和という理想もあってそれがある程度成功したことも書かれている。

領土分割は主たる同盟国の権利となったが、委任状の作成は連盟の作業となった。ここでフランスがゴリ押しして22条の規約を捻じ曲げた委任状を作成させている。(106ページあたり)

「太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ属地に関する委任嬢」の全文が掲載されている。初めて読んだ。

「主たる同盟国及び連合国は、・・・日本皇帝陛下に委任が付与せらるることに付き合意し、かつ委任状を左の通り・・・」

「日本皇帝陛下に委任が付与せらる」なのだ。。しかも国際組織の下での委任である。台湾、韓国などの他の日本の植民地の成立の仕方と違う。

 

最後の文章をどのように理解すべきか。。ここにコピーしておきたい。

「巴里平和会議に於ける妥協は、委任統治主義と併合主義という二つの主義そのもの間に為されたのではなくして、委任統治主義を唱えた政治家ウィルソンと、併合主義を欲求した同盟諸国の政治家との間に為されたのである。