やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて30年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

矢野暢著『日本の南洋史観』読書メモ(1)

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200ページの中公新書。6章の第1章は「七人の「南進論」者」で50ページを割いている。

ここにぎょっとして目が飛び出たまま、未だに引っ込まないすごい箇所がある。

中国の第一列島線と第二列島線。起源はもしかしたら矢野先生かもしれない。

前半では「南進」とは何かを「出る」原理と「為す」原理、という訳のわからない議論がされている。矢野先生が新渡戸、矢内原をきちんと読んでいればこんな議論にならないはずだ、と思いつつ読み進めた。

ぎょっとした節は「「南」へ向かう二つのコース」

ここで矢野先生は近代日本が南に向かうコースは二つにわかれていたという「自論」を展開している。中国人は絶対この矢野先生の自論を読んで研究している。PLAの列島線は矢野暢が原点では?

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拙著『インド太平洋開拓史』でチラッと取り上げた榎本武揚は前半で1ページを割いている。榎本はオランダ留学からの帰途、ジャワの北東海岸で漂流。『渡蘭日記』に記録があるという。(ホントに漂流?)ここもオランダの植民史を矢野先生が知っていればもう少し深みのある議論になったであろう。でも1ページでは足りない。

 

さて、矢野先生が取り上げた七人のサムライは以下の方々。(引用先がない箇所はウィキから)

 

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志賀重昂(しが しげたか)(1863年 - 1927年岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職の長男

日本の地理学者評論家教育者衆議院議員

 

服部徹 元土佐藩士。1887年、東京府知事率いる明治丸で小笠原諸島へ巡航。『日本之南洋』「東洋」とも「西洋」とも違う領域概念として「南洋」を措定。母親とともに父島に移住、『南洋策』(通商交易、拓殖移民=ミクロネシアからジャパン・グラウンドにかけて展開していた社会的・経済的交通を乗っ取ることを通して発展させる)ドイツ帝国のミクロネシア領有への警戒感と国防の重要拠点を主張。

レジュメ「『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』第8章」 より

 

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菅沼貞風 (すがぬま・ただかぜ / ていふう)(1865年 - 1889年)経済史家著述家南進論者平戸藩士・菅沼量平の長男。貧しい士族の子

 

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田口卯吉(たぐち うきち)(1855年-1905年経済学者歴史家実業家東京府会議員、衆議院議員

幕臣の子で、江戸目白台の徒士屋敷に生まれる。父は西山家から養子に入った樫郎、母は町子。田口家は初代右衛門が将軍・徳川吉宗の従士として使えて以来の家系

 

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稲垣満次郎(いながき まんじろう)(1861年 - 1908年外交官

肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年明治15年)、東京大学文学部に入学。

 

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鈴木経勲(すずき つねのり(けいくん)1854年 - 1938年 南方探検家、著述家、記者

父親は土佐出身で武州川島の鈴木氏に養子に入った幕臣昌平坂学問所で学んだ後、幕府陸軍語学所でフランス語を学ぶ。維新後静岡に移る。

 

最後の一人はサムライではなく酒屋の息子。

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竹越与三郎 (たけこし よさぶろう)(1865年 - 1950年歴史学者思想史家殖民学者・政治家衆議院議員枢密顧問官貴族院勅選議員宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長 

武蔵国本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の酒造業清野仙三郎の次男。新潟県中頸城郡で成長する。1881年慶應義塾に入学。 翌年、福沢諭吉から時事新報社への入社を薦められ、在学中から新聞に執筆し始める。