やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

『日本の国際法学を築いた人々』一又正雄著読書メモ(5)

4章 国際法学会の創立と育成

一節 山田三郎と立作太郎と山川端夫

山田三郎は1869年生まれ。早大の前身東京専門学校に18歳で入学。鳩山和夫に認められ帝大法科大学全科専科生となる。しかし中学を卒業していないため錦城中学校から開始。すごい努力の人である。彼は東大の権威を重んじ、国際法学会創立の中心人物になる。

国際法学会の権威主義を脱したのも山田で、創立50周年でそれを成した。その背景には愛国心があった、という。

立作太郎 1874年産まれ。産まれてすぐ、本家の兄夫婦の養子に出される。立作太郎は委任統治論でいくつか論文を読んでおり身近に感じる学者である。そして彼の死を招いたのがまさに戦争中であった。靴を一人で脱ぐこともできないほど疲れ果てていたという。立は国際法で軍部と、戦争と戦っていた、のであろう。重光との交流もあったに違いない。

立の文書が難解である理由が、否定の否定、肯定の否定、疑問の限界の不明が挙げられているが、まさにその通りなのだ。短い文書でも何度も読まないとわからない。何度読んでもわからない。

死の淵にあって「戦時国際法」を執筆していた。当時日本軍部が無視していた国際法である。これはオンラインでも読めたので挑戦してみようか。。

山川端夫

海軍の国際法担当として日露戦争、パリ講和会議、軍縮会議などに責任ある立場で参加。若い時は近衛篤麿の議論に同調、七博士とも議論を交わした。国際連盟思想普及を務め、全国の大学生を集めて御殿場、軽井沢で夏季大学を開催。

 

二節 国際法学会の創立

山田三郎と山川端夫の活躍。1912年から30年近く、米国カーネギー平和財団から国際法雑誌への資金援助を受ける。

三節 「国際法雑誌」の創刊

発刊の辞が引用してあるが興味深い。国際法はキリスト教の原則で発展し、米国の発展は欧州国際法か欧米国際法へと変わった。日本が条約改正に成功したことはこのキリスト教原則の国際法を地理的に拡張し、欧州とキリスト教の枠をでた真の国際法となった。西洋と東洋の国際関係を一新した。国際法を進歩改良させ、人類社会の正義人道の目指す、と言う右ような内容である。

実は国際法を学ぶ中で日本がその地位を得た意味は西洋国際法からの脱却なのではなかったかと考えていたので、やはりと。他方、その限界が見えてきて、大東亜国際法とかか出てきたのであろう。

 

四節 国際法学会の活動と関連事業

月例会号、国際法協会日本支部の創立、国際連盟協会設立の支援、グロチウス記念事業、などが挙げられている。