春はあけぼの やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて 清少納言
此春は 花にまさりし君待ちて 青柳の糸、みだれ候 隆達小歌
時鳥そのかみやまの旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ 式子内親王
「いろいろ行けていいですね。」
私も立場が逆であれば同じ事を言ったであろう。
相変わらず出張が続いている。行き先が行き先なだけに、誰も大変ね、とは言ってくれない。― パラオ、サモア、ハワイ、、、
きっと観光客として行けば楽しいところに違いない。「想像」の楽園が見事に創造された囲まれた空間、ワイキキ。そこに留まり、外の現実世界は見なければ。
南の楽園は問題ばかりである。空港に着けば、すぐその問題が目に着く様になる。
ホノルル空港に着くたくさんのミクロネシアの人々。親戚を頼って、職探しだろうか?それとも奨学金を得て学業に励むのか? ハワイ州の保険制度はミクロネシアの人々へのサービスの窓口を狭めたばかりだ。
人種差別に合わないか、物価の高いホノルルで生活できるのか?病気になってもちゃんと病院に行けるのか?悪い仲間に引き込まれないか?彼らの行く末をつい心配し、暗い気持ちになる。
ハワイは彼らにとって決して楽園ではない。そしてそのような問題から目を背けられない仕事を持ってしまった自分にとっても、である。
では、私にとっての楽園はどこか、というと今のところ京都である。
日経新聞2011年6月10日に「都にひそむ古典 不意に身近に」という比較文学者芳賀徹氏のエッセイが掲載されていた。エッセイの中で上の4つの歌が紹介されていた。
京都の今も美しいのだが、不意に現れる白河上皇、世阿弥観阿弥親子、角倉了以、坂本龍馬とお龍さん、武原はんや西田幾太郎。イニシエの想像の世界。正に楽園である。
京都の友人宅はトイレの前に小さな石庭が施されている。夜トイレに入ろうとしたら、青白い光がポトンとその石庭に落ちた。翌朝、石庭の白川砂の上に蛍の死骸を見つけた。昨晩いっしょに遊んだ蛍がツいてきたようだ。
京都はモノノケたちも沢山たむろしている。