やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

駒吉

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なぜ太平洋島嶼国の仕事していると團伊玖磨さんに出会えるのか?(写真は團琢磨さん、(幼名駒吉)です)

笹川太平洋島嶼基金は1993年から5年間南太平洋大学に対して日本語講座の助成をしてきた。

しかし、生徒の数は増えないし、自力での持続ー継続の見込みはなかった。

止めるにしても継続するにしても外部専門家による評価が必要と思った。しかも、基金が助成する前は国際交流基金が同様の事業を開始したが2、3年で休止している。表上はフィジーのクーデターが原因としていたが、実際は違うとの話を大学関係者から伺っていた。

1997年、まだ事業評価という事自体がそれほど一般的でなかったため、予算を取るのは大変な苦労であった。それよりも評価者を見つける事の方が大事であった。

インターネット(当時はパソコン通信)で公募した。

「私でもよろしいでしょうか?」という反応があった。西尾珪子さんという方である。

西尾珪子、誰であろう?と財団の日本語事業の担当者に聞いたところ

「知らないの!日本語事業の大家よ。日本語普及協会の創設者にして理事長!文部省の委員もされているのよ!お兄様は團伊玖磨さん。お爺さまは血盟団事件の團琢磨さん。そんな偉い方があなたの事業の評価なんかするわけないでしょ!」と最後に余計な事まで言われたのを鮮明に覚えている。

音大出の当方は「團伊玖磨」という名前に全身硬直したのも覚えている。その時は血盟団事件の事はこれっぽちも気に留めなかった。

團家と言えば、鳩山、石橋(ブリヂストン)家につながる「華麗なる一族

一番重要な日本語評価作業をすっ飛ばして結果を言うと、南太平洋大学の日本語講座は評価作業の成果としてODAにつながって、しばらく継続する事になったのである。

團伊玖磨さんは南の島にご関心があった関係で、評価事業が終わった頃、お会いする機会があった。そして事業に協力いただく可能性も出て来た。私は必死になって『パイプのけむり』を読んだ。團伊玖磨さんは島にどのような関心があるのだろうか?と。

パイプのけむり』には「駒吉」というエッセイがあってこれはお爺さまの團琢磨さんの事が書かれている。團琢磨さんは子供がいない團家の養子であった。実家は福岡藩士馬廻役で、その四男。

ところが團家に跡取りが産まれたため実家に返されそうになるところを「家には帰りたくない、勉強させて欲しい」と粘ったそうである。エッセイの中で團伊玖磨さんは「おじいさんはエライ」と褒めていたのが印象的だ。

そのお爺さまがある日突然暗殺されるところまで書いてある。團伊玖磨さんが音楽を目指したのもこの暗殺事件と無関係ではなかった、と『パイプのけむり』にあったような気がするが定かではない。

この事を知ってから、全く関心のなかった「血盟団事件」の事が気になりだした。中島岳志氏の本も読んでみたし、民主党の近現代史研究会も参加した。日本が太平洋に進出するきっかけとなった第一次世界大戦。それに続く軍縮で職を失い、国民から冷遇される将校達。母親から突き飛ばされた子供の時の記憶や「桔梗の花の色はなぜ紫なのか」という疑問を持つ井上日召の心理。

色々な事がつながって、急に馬廻役四男の駒吉の姿が浮かび上がるようになった。

駒吉は何を考えて、実家には帰りたくないと懇願したのであろうか?「馬廻役」というのはよく知らないが、決して楽な家計ではなかったのかもしれない。出世して、成功して実家を助けたい、と幼い駒吉は考えたかもしれない。。。

南太平洋大学の日本語教育評価作業については別の項目で書いてみたいが、西尾珪子さんとの出会いは、思わぬ方向に展開し、戦争につながる当時の背景を、ぐっと身近に感じながら勉強させていただく契機となった。

追記

記憶が朧な『パイプのけむり』で「駒吉」というタイトルを探したが見当たらず。タイトルは勘違いかもしれないが、この内容は覚えているので、どこかに書いてあるはずです。一度図書館で全巻に目を通したい。『パイプのけむり』のような文章が書けるようになる事が一つの夢です。