やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

満州事変 ー 笹川良一と松本重治 『追想松本重治』

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1991年に笹川平和財団に入る時、今早稲田で教授をしているらしい黒田一雄から「一生十字架を背負って生きていくんだよ」と言われたことを30年経っても覚えている。

この黒田というのはいっしょにボランティア活動をしていたのだが彼は一切活動せず肩書きだけであった。なんで参加したの?と聞いたところ留学のための推薦状にボランティア活動は必須だから、としゃあしゃあと答えて心の底から軽蔑していた事も覚えている。インターネットもない頃で1万人の会員に会報を送付する作業など山のようにあったが彼は何もしなかったのだ。

曾野綾子さんが日本財団の会長になるまでは本当に酷い笹川叩きの毎日で、良い事業を行うよりもその事に時間とエネルギーを費やしたような記憶がある。

最初の頃は「笹川が何しに来た!」と個室に呼び出されて脅かされたり(山階なんとかという皇室関係の方でした)しょっちゅう泣いていたのも覚えている。

ところが、曽野さんの前も後も財団自体は変わってないのだが、世間の目が変わったのだ。

笹川叩きの本家みたいのが同じ満州にいた松本重治で、興味を持たざるを得なかった。伊藤隆さんの松本批判の文章が読みたくて図書館になかった『追想松本重治』を古書で入手。手元にある。

緒方さんの満州事変を読んで、この本を再び開いた。伊藤先生の文章を確認すると同時に松本とIPRの記述があることを始めて知った。私が企画した太平洋島嶼国の日本語教育の調査をしてもらった西尾珪子さんの文章もある。

 

f:id:yashinominews:20200426172934j:plain松方三郎

浦松佐美太郎夫人の寄稿「太平洋問題調査会の三銃士」がある。浦松佐美太郎、松本、松方三郎は欧州留学時代新渡戸と交流があり、太平洋問題調査会にも関わる事となる。この「三銃士」はあのラティモアを日本に呼び近衛と岸の面談にわざわざ同席させて、岸の満州の計画を潰している。(長尾龍一先生の本にある)戦後、松本は国際文化会館設立に松浦を誘ったが断られたそうだ。ちょっと色々想像してしまう。

 

f:id:yashinominews:20200426172543j:plain都留重人 

続いて都留重人の追想。1929年の京都IPRこそが松本の始めて国際的活動だったと書いている。松浦と松本は会議のセクレタリーだったのだ。戦後IPR再建の動きの中で松本は中心的な役割をするがパージの対象になりIPRを離れた、とある。ここは知らなかった。更に都留は、松本は戦後集まったIPRのメンバーと肌が合わなかったとも書いている。国際文化会館ができて最初の米国派遣に松本は都留を推薦したが、マッカーシズムの影響で都留の米国行きは4年も延期され、それでも渡米したという。なんかここら辺は江崎さんが読んだら深い意味がわかるのかもしれない。

笹川叩きで私も叩かれた原因であろう松本重治にイヤーな印象を持っているのだが、武原はんさんの追想では、松本がはんさんの初恋の人であったと知って、案外いい人なのかもと思ったり。

西尾先生の追想は国際文化会館に就職した時から松本にしごかれた話であるが、團家の令嬢であることも松本重治のご長男、洋氏の同窓である事も書かれていない。英語ができず松本に怒られ事務所から受付にまわされた事は書いてある。ここで西尾先生の人生が変わったんだろうなあ、とここは書けない話を想像したりしています。