やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

矢内原事件

 天皇皇后両陛下のパラオ訪問を控え日本の南洋統治の事を、さらに「侵略」という言葉と共に使われる「植民地政策」の事を勉強せねばと思い、矢内原忠雄をめくったところ、意外にも蝋山政道を通じて笹川良一氏につながった。

 ここ数ヶ月、頭の中も机の上も矢内原だらけになっている。

 矢内原忠雄と言えば「矢内原事件」。これを知らずに矢内原は語れないと思い資料を探していた。

今年もミラクル、天命は続いているようだ。

 なんと当方が在籍するオタゴ大学でこの「矢内原事件」を研究されている方がいた。将基面貴巳教授である。しかも昨年『言論抑圧ー矢内原事件の構図』(中公新書)を出版されている。学術書である。書評も多い。知らない方ではないので、連絡をしたところ一冊分けていただけた。

 今泉裕美子氏が指摘するように、矢内原が太平洋問題調査会から委託を受けた『南洋群島の研究』を当時の政府の顔色をうかがって書いたとは思えないし、思いたくない。矢内原の学者としての公正中立性を確認したかった。

『言論抑圧ー矢内原事件の構図』の学術的書評は他に譲り、次の2点が個人的に記憶に残った。

1.矢内原忠雄はバカにバカと言ってしまうタイプ

 新渡戸稲造に白羽の矢を立てられた矢内原は超優秀だったのだ。しかも回りのバカ学者を「バカ」と言ってしまうタイプだった。これは蝋山政道の南洋政策批判に限った事はなかった。

 有名な「太った豚になるよりは、痩せたソクラテスになれ」と学生に語った言葉が、矢内原を辞職に追い込んだと一般に理解されている土方成美に対するものであったようで、これを土方自身も認識している。

 このような歯に絹を着せない矢内原の言動は本人も反省しているようだ。

 「結果、残る大内と矢内原の二人だけが激しく意見を述べ、反対論を徹底的に論破した。その激しさに、恨みを抱いた者が少なくなかったようだ、とのちに矢内原は回想し、「今ではすまなく思っている」とさえ記している。」

『言論抑圧ー矢内原事件の構図』p111より

2.近衛文麿内閣総理大臣宛の辞表

 矢内原は辞表を近衛文麿内閣総理大臣宛に書いている。『言論抑圧ー矢内原事件の構図』は大学の自治の問題を取り上げているので、矢内原の辞表もその視点で議論されているが、私がここで想像(妄想)したのは、当時の政治的背景である。

 蝋山政道近衛文麿と言えば大翼賛会、大東亜共栄圏につながる「昭和研究会」。そして近衛文麿の同級生でもあった後藤隆之助もキーパーソンだ。近衛、後藤は新渡戸の生徒でもあり、矢内原とは5つ年上。矢内原が「バカ」と酷評した蝋山もいるこの「昭和研究会」の動きを矢内原が知らないはずはない。

 矢内原が辞表の宛先を近衛文麿内閣総理大臣にしたのは形式的なものかもしれないが、当時、日本を戦争の泥沼に引きずり込もうとする近衛政権に、また矢内原を辞職に追い込んだ影の姿に一矢報いたのではなかろうか?

 もしかしたら、新渡戸稲造に高く評価されていた年下の矢内原を近衛も後藤も嫉妬していたかも。男の嫉妬は恐ろしい、という。

 さて、後先を考えず、バカにバカと言ってしまう矢内原先生が『南洋群島の研究』を当時の日本の政治状況に委ねて書いたとはやはり思えない。もし考慮したとすれば国際連盟脱退と南洋群島の保持の件、そして国際連盟事務局次長だった新渡戸稲造先生の立場ではなかろうか?

 将基面先生が終章でまとめた言葉は多くを考えさせられた。

 「しかし、消えていった人の声は聞く事ができない。沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言する事ができない。まさしくそこに、言論抑圧という現象が、大半の人々には認知されにくい、ひとつの大きな理由があるように思われる。」

『言論抑圧ー矢内原事件の構図』p217より

 矢内原先生の南洋群島研究は昔恩師の渡辺昭夫先生から「誰かが研究しないと」と言われていた。当時は直接仕事に関係なかったし、ちらっとめくった本の内容は難しかったので放っておいた。

 将基面先生曰く、矢内原の業績のわりには、未だに光が当っていないそうだ。そういう意味では「矢内原事件」は今に続いているような気がする。

 このブログに書いてもほぼ世の中に影響はないと思いつつも、引き続き矢内原先生の南洋群島研究と植民地政策論を勉強し、少しでも光を当てたい。