やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

福田恆存と高坂正堯 ー 「高坂正堯の憲法観」森田吉彦

福田恆存の「當用憲法論」 で高坂先生が護憲論者である事を始めて知った。

ホンマかいな、とウェッブサーチしたら今年のVoice7月号に「高坂正堯の憲法観」(森田吉彦)が掲載されているのを見つけた。

福田恆存の本を図書館へ返却した際、立ち読みで読んだところ、福田恆存とのその後のやり取りが書かれているのだ。思わずコピーして持ち帰りました。

 

「當用憲法論」は昭和40年の憲法記念日でのNHK対談で福田が高坂とのやり取りを書いている。

改憲論者の福田は「氏は若いがなかなか功味のある表現をするものだと私は関心しました。」と高坂を褒めている。高坂は現行憲法がごまかしの「神話」である事は国民の大部分が心得ていると言ったからだ。その上での護憲の立場だった。

 

大阪観光大学教授の森田吉彦氏の論文副題は「積極的な改憲論者への転向はいかになされたのか」である。森田氏は田原総一郎始め多くの人が高坂が護憲論者であると誤解している、と指摘する。

 

そして福田とのやり取りである。

 

上記NHK対談が1965年。15年後の1980年、奥野誠亮法務大臣の改憲発言に高坂は「政治家としてあのような発言をするべきではなかった。」(中央公論 1981年1月号)と批判した。これに福田が同じ中央公論で反撃したのだ。「いくら官界の御用学者とあらうとも、言うべきことは、はっきり言わなければならない。」(福田は旧仮名遣いですが、変換の関係で現代仮名遣いにしてあります。)森田氏は、改憲論者の福田にとって高坂が「問題の核心から逃げようとする小利口なものと映ったのであろう。」と指摘する。

 

それから10年後の湾岸危機だ。

高坂は護憲論から一転する。高坂は1990年10月日本文化会議で「再び問う『日本は国家か』」という講演を行い、新憲法はそれほど上出来ではない、と述べる。(森田論文164−165頁)さらにその後高坂は国際秩序の形成・維持に無関心な日本国民に怒りを表すようにさえなる。(森田論文166頁)

これに共感した福田は激励の手紙を高坂に送っている。これこそ一般の国際政治学者が口にできないこと、大慶、大憂の至り、と。1991年2月22日の日付。福田79歳、高坂57歳。

それから3年後1994年福田は他界し、その2年後1996年高坂は62歳の早すぎる死を迎える。

この二人の改憲論者が今生きていたら。。

 

<忘筌>を思い出した。

高坂は護憲論でも改憲論者でもなかった。即ち思考停止ではなかった。刻々と変わる国際情勢に対応するベストの選択を常に模索していた現実主義者だ。

改憲vs護憲の構図は右左、保守革新と同様思考停止の状態なのだ。言葉に捕われすぎると本当の目的を見失ってしまう。