第8章「国際法における海洋保護区の意義」のおわりにをまとめたい。(同書299−304頁)
UNCLOSのEEZの制定は、伝統的な海洋自由の思想の位置づけを変更した最初の一般多数国条約であった。そしてMPAの主張は海洋自由の思想に対する批判を新たな形で反映したものと位置づけるのではないか?と、これは兼原先生の論理展開の議論と似ているように思う。
田中先生は日本の海洋法思想史研究の先駆者、高林秀雄の次の言葉を引用している。(300頁)
「伝統的な海洋制度を基礎づけていたのは、海洋の自由、つまり広大な海洋を万人の自由な使用に開放しておくことが、世界全体の利益に奉仕するという観念であった。これは、自由放任と自由競争がすべての人に最良の結果をもたらすという、資本主義高揚期の思想を表現する国際制度」
(ちょっとココで疑問が。グロチウスの海洋の自由ってオランダ船の略奪行為正当化のためだったのではなかったけ?当時の万人ってキリスト教で白人のみが対象でそれ以外は人間として扱われいなかったのでは?自由放任と自由競争といえばアダム・スミスだがスミスの共感の議論や彼が道徳・天文学の専門で、過去数百年誤解されたまま(特に経済学者に)であった事は国際法で議論されていないのであろうか?)
さらに、公海上の水爆実験の事も例として上げられている。太平洋島嶼国が海洋問題に敏感なのは、戦後の度重なる水爆実験、海洋投棄があげられるだろう。太平洋諸島フォーラムの決議文を追って行けばその傾向は明確になるはずだ。
MPAの議論の根底には海洋の自由と海洋の管理、といいう対照的な考え方が潜んでいる、と田中先生は指摘する。そして学説上MPAの思想史的意義が直接論じられている状況にはないが、生物多様性の議論から提起される実定法上の議論を通じて現れて来る新しい法現象を対象としそこに通底する思想的な変化や発展を抽出しようとする試みは的外れではない、と指摘する。(302頁)
引き続き『国際海洋法の現代的形成』に納められている第9章「国家管轄権の限界を超える海域における生物多様性保全の課題」をまとめて行きます。