やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

領海制度の構造 ー 小田滋『海洋の国際法構造』(有信堂、1956)

小田滋『海洋の国際法構造』(有信堂、1956)

1954年のビキニ水爆実験の国際法的な議論がされているので手に取った本だが他の章も興味深く、というか海洋法を学ぶ上で基本的な議論として知っておくべき内容だと思われるので、そのまま読み進めている。

 

第2章領海制度の構造の2. 領海制度の持つ意味について は現在のEEZが議論される以前の領海の法的地位についての議論で興味深い。P. 19-46

「海洋の自由」叫ばれたのは3世紀前であったが、再びこの問題に世界が関心を示している。小田教授の言う世界は1950年代戦後の世界。即ち海洋国家日本が敗戦し、非ヨーロッパ諸国が台頭し、新たなラウム(空間秩序)が形成される世界のことであろう。3世紀前との違いは、かつては自由航海・自由貿易が対象であったところが、1945年9月の米国の国際漁業政策(トルーマン宣言のことか)に見られるように海の資源開発に関心が移ったことだ。

 

現在の国際法で定められる領海12海里の前は3マイルというのが慣行、国際法であったというのは明確ではない。1930年の国際法典編纂会議では出席国36カ国中18カ国が3マイルをとり、その同じ国家が世界の船舶数の80%を所有していた。即ち海洋国にとっては公海の自由が優位に立つ条件であったのだ。

3マイル以外を主張するスカンジナビア諸国の4マイルの例も紹介されている。これはグロチウス以前の歴史的、またフィヨルドを抱える地理的な背景もあった。ロシアが主張する12マイルは日本始め各国から抗議を受けていた。

小田論文の結論は領海3マイルは国際法の原則でもないし、国際慣行としても一致していないことが書かれている。P. 20-25

 

次に領海を国際法にしようとする国際努力が記述されている。1920年代には国際法学会、国際法協会、日本国際法学会、米国の国際法研究グループが条約案を採択している。しかし1930年を境に国際法学会も国際法協会も領海制度の法典化の試みを継続しなかった。1949年の国際法委員会まで領海制度の法典化は棚上げされた。小田論文には1930年の理由が書かれていないが世界恐慌とそれに続く世界の情勢が理由、であろうか?

1955年の国際法委員会では 1. 国際慣習が3マイルに一致しているわけでもなく、2. 国際法が12マイル以上の領海拡張を正当化しているわけでもなく、3. かといって国際法が各国が3マイル以上を認めなければならないことを要求しているわけでもない、と明確にし、外交委員かに委ねる、としたのだ。即ち領海問題は国際法ではなく外交問題であると、国連の国際法委員会が結論した、ということであろうか。P. 28-32

 

続いて領海範囲が法典化しない理由が議論されている。これは小島嶼国、現在のBBNJの議論にも繋がっていそうでさらに興味深い。1点目に領海の拡大が沿岸国の義務、責任の増大であることだ。そして小田教授は領海を管理できる大国ではなく、「自国領海内においてすらその義務を忠実に履行できることが容易でなさそうな小国が、領海範囲の拡張に積極的なのである。」と指摘。全くその通りで、小田教授はEEZの制定や現在のBBNJでの小島嶼国の主張をどのようにお考えであろうか?

 

最後の説も興味深い。領海と領土は違うのだ。沿岸のある領土の延長に領海があり、「領海の地役理論」が紹介されている。極端な例で言えば、日本が領土を持たない、どこかの海洋を領海とすることはない。逆に沿岸を領土を失えば領海もなくなる、ということであろうか?

ここで領海拡大の核心が書かれている。

「これに反して、そのような自由競争(経済的実力と発達した海洋技術を備えた海上国)に望みない国々は、なんらかの法的な制度に頼って、自らのために資源を可能な限り留保しようとするであろう。」

太平洋島嶼国がそれであり、70年代にEEZの制定と共に島嶼国が誕生したこともこの一文が説明してくれるように思う。ただし「可能な限り留保」した後どうするのか?BBNJの議論はさらに「可能な限り留保」しようとしているのではないか?