やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

後藤新平の植民政策(4)満州植民

小島嶼国の誕生の背景に英国のコモンウェルスがある。これを発想したのはチャタムハウスを創設したライオネル・カーティスで、彼は後藤新平にも新渡戸稲造にも会っている事を知って、放っておいた後藤新平の植民政策を再度確認したいと思い、本を手にした。

 

藤原書店から出ている『正伝 後藤新平』の4巻目が満鉄時代。

5節の「文装的武備」は16項目あり、4項目からは旅順始め、満州での後藤の植民改革が記されている。多分項目を書くだけでどれだけの成果をあげたかわかると思う。

 

4.旅順と陸海軍

5.旅順経営論

6.伊藤博文へ呈書

7.山本権兵衛への封書

8.旅順工科学堂

9.大連病院と南満医学堂

10.東亜経済調査局

11.満鮮歴史地理調査

12.中央試験所その他

13.大規模の都市計画

14.新聞対策

15.特殊金融機関設置論の不成立

16.東洋銀行設立案

 

ここと、また第3巻目の台湾時代をじっくり読めば、後藤新平の植民政策とその実践が理解できるであろう。しかし伊藤博文との「厳島夜話」に行きたいので、ザッと読んで気になった箇所だけメモしておきたい。

 

鶴見は「ロシアが旅順を極東経営の策源地となしたるごとく、伯はこの地をもって、帝国の大陸経営の中心地として選定したかったのである。」(p. 276)と説明する。そして日本の大陸経営は、即ち植民はロシアの軍港要塞と違う「文化的人道的」な経済と文教の中心地とする事であった。

 

しかし、軍部の反発は大きく、後藤は伊藤に長い手紙を書く。これを鶴見は「伯は例のごとく文書外交を開始した。」(p. 291)と書く。この文書への伊藤からの返事は確認されていない様子だが、伊藤と後藤の三日三番の談義、「厳島夜話」につながる事になる。

この手紙に後藤の「文装的武備」を知る表現があるので長くなるが引用しておきたい。

(現代語にしてくれた藤原書店さんに感謝!)

 

「旅順をわが保護領土における学術的覇業の府とするという説を採って、これをかの文装策に対比すれば、あるいは一流の文装策と称することができるだろう。しかしながら私の言うところの文装策なるものは、旅順を文弱でうるわしい地に変じようというのではない。要するに武装の虚威を張ることをやめ、文教平和の名を正すとともに、実業教育政策によって武備の実力を充実することにある。したがって今仮にこれを名付けて文装的武備という。文装の名は列国の感情を緩和するに足り、武力の実は意を内顧に強くするのに足る。文武の名実を兼備両得すれば、旅順の重要性は今日の虚威色荘(空威張りして厳かさを繕うこと)に百倍千倍するであろう。旅順がこの学術的覇府たるに適していることは、私の保障するところである。」(p. 297)

 

鶴見は 「文装の名は列国の感情を緩和するに足り、武力の実は意を内顧に強くするのに足る。」の箇所はいまにも伊藤公の喜びそうな考え方、と指摘している。

 

このような後藤の苦労の末にできたのが「旅順工科学堂」。興味深いのは植民地に日本人の学校を作ることで現地の、即ち中国人が入れてくれと言ってくるのであって、最初から中国人の学校を作って入れと言っても入らないのだそうである。(p. 319) なんとなく、わかる。

 

後藤は植民政策の要諦を、武力よりも、経済よりも、文化に求めんとし、宗教、教育、衛生の3つに着目。

 

上田恭輔*は

「また植民地には、とかく子供のための娯楽機関を施設し、冬期長い間、一面雪でおおわれる満州であるからとて、大きな温室を建て、終始青々としたものを見られるような施設をこしらえるとか、あるいは大規模の講演を開設するとか、こういうところまで絶えず(後藤は)注意しておられました。」(p. 322)と語っている。

 

そして病院だ。

ここら辺が、現在中国が押し進める一帯一路と違うところ、ではなかろうか?

 

 

日本の開戦の正当性を訴えた米国の政治学者チャールズ・ビアードは後藤新平の親友で、後藤のことを「世界の有す唯一人の「科学的政治家」と激賞した」(p.327)

後藤は東亜経済調査局始め数々の研究所も立ち上げたのである。それを評価したのは国内よりも海外であったという。しかも調査・研究に終わらず実地に成果をあげていたようだ。

上田恭輔によると満州北部に適した大豆改良をし、手を出さない百姓にデモンストレーションで成果を示し、ただで豆を供与。豆の生産を増加。南では水田を奨励し、乞食でも裸足にならない支那人にデモンストレーションをして水田の有効性を示し年間3百万石の生産額となっり地方が潤った。それだけでなく、これらの穀物を運ぶために鉄道が利用され、一挙両得であった、と。(p. 349-350)

 

 

都市開発もすごかったらしい。

「この町が、振興満州帝国の首都となった今日においてこそ、人はその都市計画を不思議とは思わないのであるが、当時雑草茫々たる荒野に、突如として大市街地を建設せんとしたのであるから、世人はこれを目して、後藤式誇大妄想と嘲笑し、甚だしきは三井財閥と結託して、私利を営むものであるとさえ批難したのである。」(p. 359)

 

後藤を読み進めると、笹川良一氏が重なることがある。

25歳の笹川青年は67歳の後藤新平に会っているのだ。

 

「笹川良一青年は後藤新平に説教していた!」

yashinominews.hatenablog.com

 

新聞の後藤叩きもひどかった様子が書いてあるが、これも笹川良一氏と同じく、一切放任であった。(p. 363)

 

 

後は金融機関設立の話も詳しく書かれているのだが、省略して「厳島夜話」に移りたい。

 

 

 

*比較言語学者、植民地政策の専門家であった上田恭輔も興味深い存在だが、調べ始めると厳島夜話に辿り着かないので。