やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

読書メモ「東亜協同体論」における理想主義 ー 今井隆太

ハウスホーファーの太平洋地政学からどんどん横道に逸れつつあるが、蝋山政道の「東亜協同体論」(ハウスホーファー地政学に関係しているのでは?)について下記の文献をウェブで見つけたので印象に残った箇所を引用しておきたい。

今井隆太、「東亜協同体論」における理想主義、名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要 第5号 2009年2月

蠟山政道、尾崎秀実、高田保馬三人の東亜協同体論を検討した内容。但し3者の民族主義とドイツの地政学の関係は一切触れられていない。

p. 60 蠟山のみならず「東亜協同体」論者に共通する楽観的な理想主義の傾向

p. 60 「東亜協同体」論者たちが戦争の現状を知らず、日本国内で平和惚けになっていたという訳ではなく、かれらが当時一般の民衆よりも世界情 勢についてまた戦争の状況について容易に情報を入手できる地位にあったにもかかわらず、見受けられる理想主義である。これは当時、論者たちの一人であった尾崎秀実 (1901-1944)自身が指摘している。

(ここが矢内原先生が、蝋山の南洋統治論文を自殺的矛盾と批判した箇所ではないか。この今井論文を読む限りでは、「東亜協同体論」にラショナルな経済学や植民学の議論が見えない。英米の脅威があげられれいるが、英米豪等にとって日本は脅威だったのだ。)

p. 62 日本では、1931年ごろから「満蒙は日本の生命線」(松岡洋右の1931年1月 の衆議院本会議演説にある。)という表現が流行語となるほど、満蒙権益は「日本民族の血と汗の結晶」(『東京日日新聞』)であるという考えが国民一般に広く受け入れられていた。

p. 63-64 「東亜協同体論」は上記の政府声明を受けて、首相近衛の政策立案機関であ る昭和研究会が展開した議論である。論壇における「東亜協同体論」は1938年11月に始まり、40年3月ごろまでに終息する。

p. 64 この(蝋山政道「東亜と世界」1941、改造社)「地域主義」こそは、当時の国際連盟の普遍主義に対抗する東洋の論 理である。

p. 70 (尾崎秀実の理想とは)「一、東亜の共同防衛 二、政治的連 繋 三、民族的連繋 四、経済的提携の緊密化 五、新東洋文化の建設」。尾崎は「この一見千里の差ある現実と理想の間隙に橋をかける難 行程の第一歩」をどのように踏み出そうと考えていたのだろうか。

p. 70 高田は蠟山の東亜協同体論の地域主義に反駁する見解を表明している。

「東亜は如何なる意味 に於ても現在まで運命協同体であったことはない」と高田はいう。

p. 73 ここで高田保馬が民族をどう定義しているか振り返っておこう。...「それは血縁と 文化の共同によってつながれ、又何れかの時期に於ける地縁によって維が れ、進みては、その結果として歴史に於て遭逢したる運命の共同によって維 がれ、最後に、われらという一体の意識によって結ばるると共に、この共同自 我の要求によって結ばれている集団である。同血、同文、同域の紐帯によって結ばれ、共同の自我を作り上げている集団である」と定義している。