やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

太平洋を渡り歩いて35年。島と海を国際政治、開発、海洋法の視点で見ていきます。

「国際法における不干渉原則論の構図」ー藤澤厳著

 香港のニュースを見ながら国際社会は、日本は何もできないのか? 国際法はそれこそ、中国が主張する内政不干渉の原則という国際法の「最も根本的な規範」しか示せないのか。と思っていたところ、千葉大の藤澤厳教授の論文「国際法における不干渉原則論の構図」がウェブでアクセスできるので最初の一部を読んでみた。

 難しくて全然わからないのだが、国家実行や自決権、の話が出て来て興味だけは強く持った。特に米国がキューバに干渉し国際社会は必ずしも反対していない例は興味深い。

 米国では「香港人権・民主主義法案」が決議されたばかりである。記事には中国が国際法を持ち出して批判している。

「国際法と国際関係に関する基本的な規範に深刻に違反している。中国は非難し、断固として反対する」

米議会、上院も「香港人権・民主主義法案」可決 中国は反発 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

 藤澤教授はこれをどのように解釈するであろう?国際法の原則と言いながら実際に内政干渉はされている。

 香港の場合、一つは中国政府が香港の人々が選んだ政府であるかどうか、ではないだろうか?一国二制度という特殊な政治的地位にある香港を国際法は中国の枠組みでしか議論できないのであろうか?

 論文を読みながらふと思ったのは国連憲章にある自決権は国家のではなく「人々」の自決権であることから、中国政府ではなく、香港の人々の要請(要請があれば)を外国政府が受け止めて干渉する可能性はないのだろうか? 

 そもそも中国政府が言う「国際法と国際関係に関する基本的な規範」とはなんであろう? 今、ナチスのホロコーストが行われていたら国際社会は香港やウィグルに対する対応と同じ対応を取るのであろうか?内政不干渉の原則で?

 現実の政治と国際法の距離をここでも感じてしまう。国際法は200近くある国家の多様性を議論していない、ように見える。

 

 

藤澤論文で一番印象に残ったのが下記の議論だ。短いので引用させていただく。特にロウの論文(“The Principles of Non-Intervention: Use of Force,” in Vaughan Lowe and Colin Warbrick eds., The United Nations and the Principles of International Law: Essays in memory of Michael Akehurst , London: Routledge,1994, p.72.)は読んでみたい。

藤澤 巌
千葉大学法学論集   28(3) 136-96   2014年1月

https://core.ac.uk/download/pdf/97062615.pdf

 

75頁  下線は当方が引いたもの。

② 国家実行と学説の乖離

 もう一つは、学説において定式化されている規範内容と、国際社会の 法構造や実定国際法の根拠となる国家実行との乖離を主張する見解であ る。この見解では、学説で主張されている干渉についての諸規則はそも そも実定国際法ではなく、当然実効性などないとされる。

 ロウ(Vaughan Lowe)によれば、「諸規則の体系的集合という意味で の国際法は、それらの諸規則を明確化する任務を自らに課した法律家た ち、諸国際組織、諸法廷の副産物である」(15) 。そして、国際機関や裁判所、学者が国家実行を整理することにより明文化された規範は、一度文書化されると、他の文書化された規範との整合性のみが問題とされるようになり、現実の国家実行の傾向と無関連化していく(16) 。不干渉原則も その例外ではなく、「このようにして、決議2625のような諸文書は、国家実行と道徳原則から同時に切り離されるようになったのである」(17) 。 ロウの議論は、学説だけでなく、国際判例や国際組織の決議なども射程 に収めるものだが、ここでは本研究の関心に従って学説についての彼の所論に着目したい。

 他方でカーティー(Anthony Carty)は次のように議論している。最初は学説によって、後には条約によってなされた干渉の禁止は、個人間関係と国家間関係を同一視する国内法類推に基づいたものである。このようなモデルからの不干渉原則の導出は、ヴァッテル(Emmerich de Vattel)が自然法論に基づき最初に行ったものであるが、彼は、国家実 行から不干渉原則を導出したのではなく、逆に国家実行を批判し、解釈 するための枠組みとして、平等な主権国家の並存という多元主義と不干 渉原則を導入した。この不干渉原則は、一般慣習法(general custom) を国際法体系の基礎とするその後の国際法学においても、先験的な命題 として維持された。すなわち、慣習法の証拠としての国家実行の検討に 際して、不干渉原則はあらかじめ前提とされており、直接国家実行から 干渉についての慣習法の存在を証明するのではなく、むしろ不干渉原則という先験的な基準に照らして、個々の国家実行の関連性や意義が評価 されるという議論の構造が存在したとカーティーは捉えている。つまり、不干渉原則に適合的な国家実行しか法的意義を認めないという国家 実行の取捨選択が行われ、学説上の不干渉原則の法的地位は、国家実行 によっては決して反証されない仕組みになっていたと理解されるのであ る(18) 。しかしカーティーによれば、現実の国際社会の構造および国家の 行動様式はそのようなモデルに適合するものではなく、干渉については何ら実定国際法が存在しない。したがって、このような不干渉原則は実 効性をもたない(19) 。